在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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いよいよ、話は完結。
祝福式はRFKスタジアムだったが、まさかその数年後、実際アメリカに住むことなろうとは、その時は思ってもいなかった。
義父との舌戦(なのかなぁ)は、今回の数年後も、、、。「私ほどお義父さんにこのように付き合って話した人はいままでいますか?」「、、、いや、いない。」と云うほど、倒れる寸前まで(時差もあり私は寝ていない状況の中)、数日に渡って夜通し繰り広げた。
短い交流ではあったが、なるべく内容のあるものになるよう心がけた。
もちろん、実際に会ったのは1997年11月28日のリハーサルの時だった。
翌29日にはRFKスタジアムで祝福式が行われた。
当日、ワシントンDCはとても寒かった。
その翌日だったかはグループ、といっても私たちのカップルともう一つのカップルでダブルデートのようにして、スミソニアン博物館に行った。
帰国後は、電話や手紙で交流を深めた。
国立航空宇宙博物館
ライトフライヤー
ところで、定職のない状態の私は依然として親から完全に自立、独立したとは言いがたい状態だったと自分では考えていた。
たとえ、親から金銭的援助を受けてなくてもである。
早く、実家から脱出したかった。
思案しながら、土地勘のある札幌に行くことにした。
幸い、教会関係の知人もいて協力してくれる。
F市教会の教会長からは「仕事のために所属の教会をかえるとは、、、。」とお小言をもらったが、最後には快く送り出してくれた。
アメリカへ
札幌に出てからは短期のアルバイトをしながら就職活動をした。不景気の上、ブランクもあり就職活動は非常に厳しいものだった。
時間を少し戻す。祝福を受けた我々は、親にはお互いを紹介する。そのためにお互いの実家を訪問することで意見は一致していた。
私は当時無職であり、この状態での相手方実家への訪問には躊躇するものも確かにあったが、祝福のためにアメリカに行ったこと、すでに相手としての私がいることは相手方のご両親も知っている。多少悩んだが、行くべきと考えた。
B町とA市、その後相対者の実家であるI市を訪れることにした 。
再度の拉致監禁を警戒したことは当然のことだった。
B町では母と会った。
打ち合わせをして、揚げ足を取られないようにとも考えたが、どう答えても揚げ足を取りに来るのは目に見えていたのでやめた。
揚げ足とりは案の定だった。
それは良いとして、母は私を完全に怒らせる一言を相対者に言い放った。
「もう、来なくてもいいわよ。」
怒らせるような暴言も、非常識な振る舞いもなかった。
その辺は十二分に考えて受け答えをしてるはずだ。
「マッチングで決まった相手は実の子供同様慈しむ、大切にする。」あの約束は何だったのか。所詮、異常な監禁下での話、約束などあって無いもの。そう強く感じ、記憶するのに十分有り余る出来事であった。
A市では祖父母と叔父の一人は会ってくれたが、母の弟の内、母と共に監禁に対主導的立場にあったと思われる叔父は、「思想が違うから」という理由で会うことはなかった。
もう一人の叔父(監禁には参加)は出会いがどうであれといって会ってはくれたが、「お姉ちゃんが許していないから全面的に祝福はできない。」と言った。
マンションの中で「次回の祝福への参加は認めるし、マッチングで決まった相手は実の子供同様慈しむ、大切にする」と言ったのは、そのお姉ちゃんなんですが、、、。
私自身は、もうどうでも良くなっていたし、自分の意見のない叔父には脱力した。
今度は相対者の実家のあるI市である。
そりゃ非常に緊張した。なにせ無職の身である。
しかも、世間的には聞こえの悪い統一教会員。相対者の実家に到着したのは午後6時を回ったあたりだったか。
義母は、わざわざにぎり寿司の出前を取って待っていてくれた。
自己紹介から始まり話は穏やかに始まった。義父は1時間あまりしてから帰ってきた。
いかにも頑固親父そうみえた。
教会について、文師について質問が飛ぶ。
監禁マンションの中で罵詈雑言批判されたのとはちょっと切り口は違う。
義父:「文鮮明がいい服きて贅沢しているのはオカシイんじゃないか。」
秀:「僕もここに来るのにスーツに革靴を履いてきています。けして、ジャージでは来ません。」「文先生がいろいろな方々にお会いする場合TPOに合わせて着るものを変えるのは当然です。」
義父:「文鮮明は飛行機やヘリコプターを持っているな。どうしてだ。」
秀:「それは、それらがあればより自由に望むこところで活動できるからです。」
義父:「(文師の)活動とは(つまるところ)人を助けるということだな。しかし、どんなに急いでも今死んでいってるものは(すぐには)救えないということだな。」
ここで、相対者が「違う!」とかなり感情的になる。それを制して
秀:「いや、お義父さんの言っていることは間違ってはいない。その人たちを今すぐに救うことはできない。」
途中、焼酎を飲みながら、時間が午前となっても、ぜんぜん眠気を出さない義父、それに比べ、もうクラクラ今にも眠りこけそうな私。眠りこけることはなんとか耐え、時に鋭い質問もありましたが、明け方まで話をしました。
義父母には、「家庭を持つ時、つまり一緒に生活を始めるのはキチンと就職してからです。」と宣言して帰ってきた。
そのようないきさつがあったので、正社員として就職することは悲願でした。そうした中、友人からの紹介でK社のアルバイトをすることになりました。10日程でアルバイトはおわりましたが、私の経歴を聞いた支店長から神奈川の支店で営業を募集しているがどうかというオファーをもらい、就職することになりました。
その後、神奈川から人員の移動で再び札幌に戻りました。
祝福を受けてから、ずっと再度の拉致監禁は警戒をしていました。
防ぐ絶対の方法がないので、常に悩みのたねでもありました。
考え抜いた末、早期の入籍より方法はないと考え、相対者とも話しあいをしました。
婚姻届には成人2名の署名と捺印が必要です。
たしかに、署名と捺印は、周りの教会員にお願いすれば造作もないことではあります。
でも、それではダメだと思いました。
比較的、話を聞いてくれそうな義母にダメもとでお願いしてみることにして、相対者から聞いてもらうことにしました。
義母は快く署名してくれ、私たちは当時私の住んでいたJ市に婚姻届を出しました。
監禁解放後の母の態度、姿勢は再度の監禁がないことを裏付けるものではなかったので私自身は拉致監禁の影を常に恐れながらの生活でした。それゆえ、一応の安堵感は得られた。
ほっとしたのもつかの間。折角就職できたのですが、再就職したK社にはリストラによる経費削減がありました。結果、人件費も当然対象で、私はリストラされてしまいました。
やはり、落ち込みましたが、この機会と考え家庭出発のため必要とされる済州島14日修練会に参加することにしました。
参加する前、夏のことですが、K社の役員から電話がありました。
開口一番、
役員「秀君、アメリカ行かない?」。
秀 「???」「どういうことですか?」
アメリカの関連会社で人を探しているということだった。
「アメリカかぁ。」
行ってみたいという気持ちとやっていけるのか不安な気持ちも当然あった。
「面白そう。」
「絶対、ヤダ。」
親しい友人らの意見も様々だった。
行きたい気持ちもあるし、当然不安もあると話した友人の1人がこう言った。
「ニューヨークかぁ、いいねぇ。だめだったら?その時は帰ってきたらいいよ。」
たしかに(当時)日本の経済状況は良いとは言えなかった。いや、最悪か。仮に数ヶ月、1年後、日本に帰ってきても経済状況は今とそう変わらない。チャレンジそう思って行くことに決めた。
一度渡米して、様子を見てきたあと、VISAの発行を待って翌年渡米した。
生活を立ち上げ、相対者を呼び寄せ家庭出発した。年はさらに明けていた。
渡米から10数年。
今は、永住権を得、教会関連ではない仕事をし、くらしている。
3人の子供たちと妻とともに。
完
久種湖:礼文島にあり、日本の現施政権下でもっとも最北端にある湖
ご当地ソングはないが、悲恋の伝説がある。
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COMMENT
読後
秀さんのこだわりと御苦労がひしひしと伝わってくるようでした。
信仰も失わず幸せな御家庭も築かれたのに、何故か読み終わった後言いようのない哀しさがひたひたと押し寄せてきました。
義を貫きつつもいまだ完全には報われない秀さん、子供を監禁しても願いを達成出来ず今なお多分にわだかまりを抱えておられるであろう秀さんのお母さん、そのどちらをもわが子として見つめておられる神様がおられるとしたら、どんなにかせつないことと思いました。
一日も早く拉致監禁による強制改宗というものが無くなってほしいと切実に思います。
秀さんの話が聞きたかった。
もっともっと幸せになってください。
私が同じ体験したら、
絶対に親を許さない。夫を実家に連れていかない。
秀さんは立派です。