在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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監禁により生活基盤を失った。
理不尽な「拉致監禁」に対し悔しい気持ちはあった。
裁判をおこすことも考えたが、物証がない。
結局、この不快な環境から脱するため、私は失われた生活基盤、つまり、経済的自立、独立を優先させる選択をした。
実家での生活
監禁生活から解放され、とりあえず実家に帰えらされたが、この時自分は借金を負わされていた。統一教会への献金によるものではない。
勤めていた会社在籍中に購入した車のローン代、これは社内融資で購入したものだ。
これが130万円くらいあった。
もちろん、売却も考えたが主に2つの理由で断念した。
1つは売却しても残金の清算はできず、大部分がやはり借金で残ってしまうこと。
もう一つは、実家から所属していたF市の教会へは車で2時間はかかるし、最寄の教会も車なしで行くことは困難だったからである。
もう一つの借金は監禁期間中(滞納となっていた)アパートの家賃や駐車場の代金である。
これは45万程であった。
これらは、叔父が立替ていた。
監禁から解放された後は、貸した金をかえせ。だ。
自分たちのエゴのために監禁をして、職も奪っておきながらとむちゃくちゃ腹が立った。
もしも、私が脱会をしていたらその対応は明らかに違っていただろう。
ゆえに、理不尽でもこれをたたき返さないと真の自由はないと思った。
当面、退職金と失業保険でしのぐことにしたが、バブル崩壊後の経済下にありとても不安であった。
すべてを支払いに使ってしまっては身動きができなくなってしまうので、手元にある程度残しつつ、不安解消のためもあり、お金はかかったが資格を取得したりした。
監禁解放後、外出にも何処に行くのかいちいち干渉してきてうるさかったので、資格取得での外出は気晴らしにもなった。
しかし、依然、借金完済の目処は立たないでいた。
秋となり、失業保険もなくなるころ、近くの工場で夜勤、日勤交代の仕事をすることにした。地元の工場、農閑期の人たちが働きにくる。
当然、中には同級生の親なんかもいる。
「どうしていたのか、なぜここにいるのか。」など聞かれ、あまり、居心地の良いものではないが、背に腹はかえられない。とにかく、春まで働き、借金は完済した。
これで文句は言わせない。少しだけ達成感を感じた。
規定以上の勤務期間になったので新たに失業保険をもらえたのも幸いだった。
さてこの頃、360万双、後の4000万双の話がでてきた。
マンションの中で、次の機会には、祝福を受けることは宣言していたので、当然のごとく参加の申し込みをした。
気持ちは監禁7ヶ月の間に十分説明した。
しかし、牧師に何を吹き込まれたか知らないが、母はまだ納得できないとか言い出す始末だった。
マンションの中で、「次回の祝福への参加は認めるし、マッチングで決まった相手は実の子供同様慈しむ、大切にする」と泣きながら約束したのはあなたですよ。
所詮、あんな仕組まれた異常な環境での約束など当てにならんということだ。
さて、問題は祝福献金である。
なんとか、完納したいと思っていた。
親も監禁マンション内から、祝福献金の金額は知っていた。
そのことには文句を言ってこなかったというより、嫌ならそもそも受けなければ良い話。
少なくとも親に出させる、出してもらうことは微塵も考えていなかった。
あれこれ、思案して道外のG市の機械工場に期間工として働きに行くことにした。
理由は、
寮があり、3食付田舎で仕事を探すよりはかなり高給であり、お金を貯める目処が立つこと。実家から離れられることは、精神的にとても楽に思えたこと。
最後は、教会。
期限内で、効率よく、誰にも文句のない方法で確実な方法となると限られるし、ここにはそのための適当な仕事先はないこと等を説明して説得した。
G市に行く前に相対者の写真をいただいた。
韓国の女性だった。
祝福式までにはまだ暫く時間がある。
ある程度、交流を重ねることができるだろう。
期待を込めてそう思った。
工場での勤務は1週間おきに日勤、夜勤を繰り返しながらの組み立てラインで働くというものだった。
生活に必要なお金プラスアルファを計算して給与が出たら給与受け取り口座とは別に作った口座に残り全額を入金していった。
仕事は、正直きつかった。
3食しっかりどんぶりで食べ、おかずのボリュームも十分だった。
それでなお、監禁中に増えた体重は急激に減り、監禁前よりも体重は減った。
思わぬ副産物であった。
働いて、体を動かしながら食事も十分に取ってなので、贅肉が削ぎ落ちたのだろう。
きつい作業の中でも目的が明確にあったので頑張れた。
日曜日には、G市には教会はなかったので、電車を乗り継いでH市の教会に通った。
こうして、半年弱G市で働いた。
G市にきて、しばらくして異変があった。
韓国の相対者に送った手紙がすべて戻ってくるようになった
それも、最初に送ったものも。
韓国にいる札幌の学生部時代世話になったマザーに相談してみた。
すぐに、相手に電話をしてくれ、電話をくれた。
すごく、言い難そうだったが言わないと始まらないからと
相手は日本人とのマッチングを望んでいなかったこと。
写真も見ていないし、手紙も開けずに返したので、私の容姿や書いた手紙の内容が原因ではないことを話してくれた。
あまり、ショックということはなかった。
正直な女性だと思った。願わくばもう少し早く言ってほしかった。
ショックを受けても、お互い前に進まないといけないのだから。
H市の教会長(当時は韓国の方だった)にも事と次第を報告した。
教会長はすぐその場から韓国に電話をした。
具体的な内容はわからないが、相手をそうとう強く叱っていた。
横で聞いていた私は何度か「もういいですよ」と言ったが、教会長は納得できない様子で暫く激しく話していた。
私自身は、彼女に悪い感情はなかったし、断ることができたことにはかえって評価する。
ずるずると自分に感情を出さず、先延ばしにされたあげく断れるよりはありがたいと思った。
教会長は電話をきった後、しきりに「申し訳ない。申し訳ない。」と私に何度も深く頭を下げた。
私は、「彼女のことを別に恨んでもいないし、教会長が悪いわけでもない。だいじょうぶです。それよりも今後のことを考えたい」と言い、その場はおさまりました。
F市の教会から出したマッチングだったので、そちらにも報告、次の機会があったら連絡してもらうことにした。
半年弱のG市での仕事で140万と祝福会場であるアメリカ・ワシントンDCまでの渡航費等を貯めることができた。
結局、相手が決まったのは祝福の一ヶ月前だった。
早々に書類をだして、ある程度交流をしてから式に臨むという計画はどこかに行ってしまった。
そう上手くはいかないらしい。
過去2回のマッチングから自分は韓国の人が相対じゃないかと勝手に思っていたが、日本人で少々拍子抜けだった。が、言葉の問題がないのはありがたかった。
「断ってもいいよ」という話も電話でした。
彼女(現在の妻)は「えッ?」と思ったにちがいない。
つづく 次回、完結です。
オンネトー:日本秘境100選の一つで北海道3大秘湖の一つ。
見る時間や季節によって湖面の色が変化し、五色沼とも呼ばれる。
ご当地ソング♪
「ねむるオンネトー」
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