在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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一時でも早く、監禁から解放されたいという想いと2度、3度の監禁は避けたい想いが交差しつつ、精神的疲労も激しい、限界も感じながらも完全決着をつけるべく、監禁生活は終盤へ。
午前0時(米東部時間)を回った。今日は7月4日アメリカの独立記念日。
このような状態をよくも話し合いだというと、怒り心頭であったが、いくら抗議しても監禁が解かれることはなかった。
こうした状況に対して、できること、試せることをしてみる以外、手はなかった。
トイレ、押入れへの立てこもり、真冬であったが窓ガラスも割った。しかし、修理の業者ではなく弟がビニールとテープで応急的に修理して終わりだった。
自分でコントロールできることを考えた末、昼夜を逆転させ周りがこれに合わせてきたら、またその逆をする。これを徹底的に繰り返した。
話し合いと称して、多重の施錠を施され閉じ込められ、常識すら通じない世界。
抵抗しようにも方法は限られていた。一体何週間続いただろうか。
牧師にも「閉じ込めた上、中学生レベルの常識すら通じない。これのどこが話し合いなのか!」と訴え続けた。
あまりにと思ったのかはわからないが、常識が通じないという状況を変えることには同意を得た。
”監禁の仕方、拉致の仕方などを親や親族が独自に開発して実行したなどということはない。
牧師らの教授があってはじめて可能なことだ。
自分と全く異なる時、地域で拉致監禁された者たちの証言による彼らの手法が全く同一であることはそのことを証明している。”
牧師の言いなり、許可なしに判断できなくなっている親らとの関わりは大変困難なものだった。それで、自分は、牧師を上手く使うことにした。
同じことを自分が言っても聞き入れられないが、牧師が言えば効果てき面だからである。
同様に元信者にもこの方法は効果絶大だった。
例えばこのようなことだ。
文師と一緒にボートで魚釣りをしたという教会幹部が、「(宗教的に)指導され感謝である。」という記事が教会系の書籍にあると「ボートで魚釣りすることのどこが(宗教的な)指導なのか」と親達は批判の雨アラレ、「単なるレジャー(魚釣り)をして、(宗教的)指導とは統一教会は異常な宗教」だと、、、。
イエスが山に登り、弟子たちを指導した聖書の例をだして説明しても一切聞き入れない。
ところが、牧師が、「師と弟子が、いつ、どこで何をしていてもそれは(宗教的)指導になる。」と言うと恭しく聞き入れる。
キリストの山上の垂訓
牧師曰く、師と山を登っていても、食事をしていても、
釣りをしていても、遊んでいても、共に何をしていても、
特に説教がなくても、共にいるだけで指導を受けている
ことになる。
このようなことが続く。元信者についても、意見の対立があっておかしなことを言ってきたら「川本牧師は、大西牧師はそんなことは言っていなかったぞ。」と返せば良かった。
この頃には教会への批判は出つくしており、持ち込まれていた批判本(13冊)も読みつくしていた。牧師はどちらかが、2日に一度の割合でもう来るなと言っても訪問してきていたが、会話の内容が教会批判から変化を見せていた。
それまでは、裁判対策なのであろう批判資料を持ってきては「読んでみて下さい。」批判本等をもとに「話し合って下さい。」というスタンス、つまり親の後ろに隠れて指示は出すが直接は手を下さないという手法で正直イヤらしい奴らというが印象だった。
どう変わったかというと、教会への直接的というかスキャンダル的批判から、秀自身の考えを探るような感じへ変化したように思った。
キリストの十字架について
献金について
責任についてetc
幾度となく話すにつれ、牧師は首をかしげ困惑している様子だった。
そして、ある日とうとう大西牧師がこう言った。
「おかしい、おかしい、、、、。 秀さんと話していると、まるでクリスチャンと話しているようだ。」
時系列的には前後してしまうかもしれないが、マンション内にいる間に親知らずが虫歯になり、歯には陥没したような穴がポッカリあいた。
そのような状態なので、耐えがたい激痛となり、眠ることもままならないそのような状況だった。しかし、何度訴えても歯医者に行かせてはもらえなかった。
尋常ではない痛みに、「閉じ込め、治療をさせないというのは、もはや傷害罪だ。治療させないなら絶対訴えてやるからな。」と脅した。こちらも日に日に増す痛みに切羽詰っていた。
親らは牧師と相談して、監禁マンション近くの歯医者を予約した。年は明けて2月になっていた。その後、治療で外に出ることが叶った。
実に夢にまでみた外の世界だった。歯は結局抜歯することになった。
通院は、逃走をはかると思われていたので、当然監視つきである。
歯医者とて、あくまで反対牧師が準備した医者である「監禁されています。」などと言って聞いてもらえるようには感じることはできなかった。
帰れば変わらず7つの鍵で施錠された。
しかし、この監禁はもうそう長くはない。根拠はないがそう感じられるようになって、希望と期待感があった。
外に出られた際、隠し持っていた10円で公衆電話から教会に電話した。
電話にでてきた青年部長は、電話を喜んでくれた。時間もないので札幌のマンションで監禁されていること、無事であることを伝えた。
「逃げることはできないのか」という問いかけはあったが、この時には監禁が解かれる日は間近という確信があったので、「だいじょうぶ必ず戻ります。」と言って電話を切った。
教会に電話したことは咎められたが、何処に電話しようがそんなのは自由である。
「一体何時まで、監禁を続けるのか」と問い詰めた。
しばらくして、大西牧師がきた。
「秀さんは今後統一教会員として生きていくのですか?」と問われ
「はい、そうですよ。」躊躇なく答えた。
別の日、川本牧師がきた。逆にこちらから質問した。
「もし、先生が僕と同じ立場で、このような状況(多重の施錠の上、監禁され、棄教を迫られた)にされたら、そのようにした者を許すことができますか?」
川本牧師はしばし考え込み、こう答えた。「できません、、、。」
もはや、この異常な空間は無意味でしかなかった。何時までここにいるつもりなのか、何時出るのか問い詰めた。
しかし案の定、親は自分たちでは決められないのだ。
もう、この時には苦笑するしかない。
「どうせ、牧師のなんちゃら先生に聞かないとあなたでは決められないのでしょう。」「さっさと、牧師先生に電話して、お伺いをたててきたら」
「、、、、、、、」
やはり、決断できませんでした。
それから、外に電話をしに行って帰ってきた親は、「〇日にでる。」とだけ言いました。
しかし、場所を移動してさらに監禁が続いたというケースを知っていたのでけして安心できるものではなかった。
最後の10日ほどは監禁マンションからでるための条件のせめぎあいがあった。
解放後は実家に戻れという牧師と帰りたくないという私の主張が真っ向からぶつかった。
本当は、(実家に)帰るのは死ぬほど嫌だった。
しかし、長くはないという希望があっても、これ以上抵抗して、監禁に耐えるだけの気力は乏しく、疲弊の局地でもあった。
とにかく、一日でも一刻でも早く監禁部屋から出たかった。
それゆえ、自分の意思で望んで帰るふりをした。つまり、自分にも親にも嘘をついた。
そうしないと、精神がもうもたないかもしれない。そのように感じていたからである。
3月〇日、監禁マンションからは解放された。嫌でも約束は約束である。 実家に帰った。
まだ もうすこし続きます。
監禁から解放されたら、万歳、めでたし、めでたしというわけじゃない。
次回は監禁後の話。
屈斜路湖:日本最大、世界でも2番目に大きなカルデラ湖
湖の岸辺を掘ると温泉がでる砂湯があり、湖に突き出た
和琴半島はミンミンゼミの北限生息地。
こんな歌詞 なんと5番まであるぞ
(一) 昔むかしの 大むかし
そのまた昔の大むかし
夜空に星が かがやいて
二つ流れて 落ちたとさ
(二) スコットランドの湖と
日本の北の みずうみに
サファイヤ色の尾ひいて
二つ流れて 落ちたとさ
(三) 誰から受けたこの身やら
いつ迄生きるさだめやら
千年ひそむ 屈斜路湖
いつか呼名もクッシーさ
(四) 花よ青葉よ 月かげよ
白鳥くれば また冬よ
暗い湖底で 春をまつ
ネッシーあなたはどうしてる
(五) 西へ流れる お星さま
私の思いを つたえてよ
ネス湖のたよりは西風が
吹けばくるだろ
とどくだろう
「ネッシーとクッシー」 唄 田中星児・ビクターレコード
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