在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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個々のエピソードはよく覚えています。
7つの鍵を付けられるシーンは一昨年夢で見ました。悪夢です。
それ以来、拉致監禁関連の夢はみていませんが、、、。
監禁の開始
拉致されたのが8月〇日のことです。マンションに入れられたが翌日未明のこと。
8月25日に祝福(合同結婚式)が迫っていたので私は大変焦りました。気持ちは当然参加でした。
「どうして参加するのか。」から話は始まりました。
「統一教会に出会い。教理を知り、考え、それを受け入れたので参加するのだ。」と時間をかけ話しました。
しかし、母が「そんなのでは納得できない。」と声を荒げました。
どのように説明しても「納得できない。納得できない。」の繰り返しです。
目的は、強制棄教であり、如何なる説明に対しても納得などする気がない。というのが本音でしょう。
これは拉致監禁以外の何ものでもなく、卑怯な行為だと何度も何度も抗議しました。
入室と同時にチェーンと南京錠の拉致監禁ではおなじみの”施錠”がされていました。
おなじみチェーン+南京錠
また、マンションは7階か8階の部屋でしたから、もし飛び降りれば即死です。
鍵は、母が首からかけ衣服の中に入れています。
ドアの方に行くだけで弟か叔父が立ち塞がる状況でした。
チェーンと南京錠の拉致監禁ではおなじみの施錠を示しての抗議に対し、答えは「これは保護であり監禁などしていないしする気もない。」だった。
「私は禁治産者でも準禁治産でもなく、成人した一人の人間だ、保護などされる謂れはない。」と反論しました。
しかし、「統一教会からの影響が及ばないところで誰にも邪魔されず話す為の保護だ。」と返してきました。
しかも、母はこの言葉は誰から言われたのではなく、自分で考えた言葉だと言いました。
私は背後に反対派の牧師がいることを確信しました。しかし、事態全く埒があかず、ただ時が過ぎていきました。
あなたが信じているのは「原理講論とかいうこの本に書いてあるのでしょう。」
「氏族のメシアというなら、説明する義務があるじゃないの。」と私が話していないこと(氏族メシアという言葉など)までよく知っていました。
反対牧師らによって、徹底的に教育を施されているのがよく理解できました。
それから、原理講論について、いちいち記述されている事柄の言葉について挙げ足取りをしてきました。
その酷さは原理講論の最初の三行にまる三日費やしたほど。
原理講論、聖書は用意周到人数分用意されていた。
この監禁が用意周到に準備されていた証左の一つでしょう。
それでも、祝福に参加したいという強い意志で耐え忍びました。
でも、一週間も続けると心身共に疲労困憊になり、話も堂々巡りになり手詰まりになって来ました。
その前から、「詳しい牧師さんがいるから来てもらいましょう。」とは言われていましたが、「家族の話し合いというなら他人である牧師がくるのはおかしい。」拒否しました。
後に統一教会での教化の過程をロールプレーイングゲームに例え散々揶揄されました。
しかし、次は「牧師様の登場」が絶対予定かのように母は必死で牧師を呼ぶことの同意を求めてきました。
あくまで、本人の要請で来たという体裁を整えるのに絶対不可欠なのでしょう。
後の裁判対策の為の対策と思いました。
そのための芝居にしか見えませんでした。
私は牧師登場自体、ロールプレーイングゲームような”不可避な予定されているイベント”であり、現在の自分に拒否権はないことを実感して、”同意以外進展がない状況”を受け入れるより道はありませんでした。
ロールプレーイングゲームでは登場人物に話しかけても特定の言葉
しか話さない。
ゲームクリアのために”不可避なイベント”も発生する。
牧師は日本基督教団の大西という牧師だった。
大西は小柄で力で相手をどうこうできるタイプではなく、もし、相手が暴力を振るうならば、全力で返り討ちにしてやろうと思っていたので少々拍子抜けした。
大西の最初の話は、「旧約聖書」は御伽噺と同じ「単なるお話」なんです。という話だった。
「新約聖書」は史実ととらえているらしい。
大西の手法は、大抵何かお題を出して自分が退出した後、話し合ってくださいというものだった。
いわゆる反対派の本も十三冊持ち込まれてた。
13冊の内、5冊は現在所有している。
大西にも拉致監禁については何度も自力で開錠できない鍵の存在を明示し抗議したが、返答は母の答えと全く同じ、当然受け入れられることはなかった。
反対派の本は、監禁部屋であるマンションの中が恐ろしく何もすることがなく退屈なのもあり、7ヶ月の監禁生活の間に結局全部すべて読んだ。
特に当時は、「六マリアの悲劇」が決め手だったのであろう。
「読みしないのは卑怯だ。読みもしないで何がわかるか!」
「監禁しておいて何が卑怯か。そっちこそ卑怯だ!」と激しく応酬した。
この「六マリアの悲劇」つまりは「血分け」があったか、なかったかの問題は「私は裏切り者」の存在を知っていたこと、言行がフラフラ変わる著者の朴正華氏より、そのような事実はなかったとする「金元ピル先生の言葉を私は信じる。」と言い切った。大西は自分で見たわけでもなく、具体的な証拠を示せるわけではないのにも関わらず、最後まで事実あったことに固執していた。
それ以上議論しても、どうせ大西の考えが変わるわけでもないので、自分の考えだけを言い切ったところで止め、固執する大西には苦笑するしかなかった。
「六マリアの悲劇」と「私は裏切り者」
これは監禁も終盤になってからの話、前半は実にやられっ放しだった。
大西が出張に行くことになったらしく、代わりに来たのが川本、同じく日本基督教団の牧師だ。
手法は大西とあまり変わらない。
この2人当時は名(迷)コンビだったようだ。当時、札幌市内で4人監禁されていたせいか、つねに倦怠感を漂わせており、また、すでに脱会した元信者から依存されていることで悩んでいた。
これは、「札幌には、僕と同じ環境にいる人は何人いるのか?」と尋ね、牧師が答えたので知った。
「だったらこんな犯罪まがいのことさっさと止めたらどうか。」と言った記憶がある。
「いや、、、しかし、、、やめるわけには、、、、。」 川本の答えは歯切れが悪かった。
川本には子供がいなかった。夫婦二人だけの家族らしい。
それで特に”四位基台”や”真の家庭”という言葉を嫌悪し激しく批判した。
神、父母、子で完成する統一教会の家族感を認めることは子どものいない自らの家庭を否定されているかの如く感じるのであろう。
彼の主張は、母子家庭や父子家庭を家庭ではないかの如く扱う統一教会の家族感(けしてそうではないが)は間違いだと言うわけだ。
わからなくはないが、無理やり問題を親子問題にすり替えようとしているのがミエミエで気持ち悪いくらいだった。
監禁されているとやはり心、気持ちの起伏が激しく変動する。
まるで鬱の状態が定期的にくるような感じだ。
第一波は監禁開始から二週間後にきた。かつ監禁期間を通して一番キツイものだった。これは監禁中引きずることになるが、待ち望んでいた祝福を諦めざる得ないことが決定的になったからというのも理由だと思う。
92年にも機会はあった。でも、その時は受ける気がなくそれから3年かけ、考え、準備した結果だった。
それを失った時の衝撃、喪失感は言葉にできない。
加えて、この監禁により職も失った。
一層、暗澹たる気持ちになった。
マッチング相手に祝福には行けない旨の手紙を書きたいと願ったが、「勝手に書けば。」
「でも、教会にも相手にも届けたりはしないから。」と無碍な態度を取られた。
そのような中、執拗な教会批判が続いた。
いつまで続くかわからず無期限で保護という名で行われる監禁の日々。正直、脱会して早く楽になりたいと思った。
その後、常識的なことも通じなくなるのを感じ、昼間寝て夜起きるようになった。皆がそれに合わせてきたらその逆を繰り返した。
自分の考えは、マインドコントロールされているとまともに聞き入れられることはなかった。力も弟と叔父の二人がかりであれば逃げようがなかったし、強固な逃亡防止の施錠が脱出を阻んだ。
教会と関係のない常識すら通じなくなった。
その中での能動的にできる精一杯の抵抗であり、抗議だった。
断食はしないこと。
これは教会の対策講義でも言われることであったが、体力を奪い、いざという時に動けなくなるので私はしないことを決めていた。それで夜起きている時は勝手に調理して食べていた。
このにおいで眠りを妨げることになり、家族、親族はだいぶん弱っていた。
無駄だとも思ったが、暴れもした。
食器、ガラス、引き戸壊せるものはなんでも壊した。
マンションにはスチールの外のドアと内側に普通の?ドアがあった。
しかし、この普通のドアは普通ではなかった。
ドアノブが外側と内側逆に付けてあり、中からは鍵で開けないと開かず、外のドアまで行けないよう改造されていた。
鍵は常に母が首から下げ衣服の中に持っている。
奪うことも当然考えた。
絶対に渡すまいとする力はとても非力な女性のものではなく、いわゆる火事場のクソ力であろう。非常に強いものだった。
とても、力を加減してといういうわけにはいかない。
それは、もし、決行するとすれば母の命は顧みないでということを意味する。
ドア自体も厚手の合板で作成した頑丈な特注後付けのものだった。
夜中、皆が寝が深くなった頃、このドアを蹴り壊し、最後は拳、肘で穴を広げ、開けた。拳と肘は血まみれになった。
しかし、外のドアは幾たびも助走を付け全力で体当たりしてもチェーンが切れることはなかった。
騒いでたとえ警察が来てもこの問題は取り扱わないから無駄だと言われていた。
それでも騒いで助けを求めたが助けは誰も来なかった。
大きな音で起きてきた家族に取り押さえられた。
その後、チェーンが切れることを恐れた母は外のドアに計7つの鍵を付けた。
もはや、マンションは強固な要塞化し自力脱出は事実上不可能となった。
希望が全く見えず、光のない深海深く漂っている感じだった、、、。
つづく
図解 監禁マンション
札幌市北区にあるこのマンションが監禁の舞台
現在、マンション名は当時と変わっている。
当時、少なくともこの一室が常時監禁部屋とし
て使用されていた。
比較的当時の監禁マンションに近い部屋
3LDKのマンション。実際は浴室とトイレの位置が違った浴室は玄関側、
トイレがキッチン裏にあった。窓はない。そのため、内側のドアは図よ
り玄関よりだったと記憶する。
少なくとも和室6帖の外にはバルコニーはなかった。内側のドアを破壊し
てはじめて入った洋室6帖の部屋には、いつ監禁がおきても対応できるよ
うにということだろう食器類やトースター、電子レンジ等の生活用品。
歴代の監禁家族がおいていったもののようだ。
7つの鍵は玄関から外にでるドアに取り付けられた。
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COMMENT
私もほぼ同時期に
Re私もほぼ同時期に
コメントありがとうございます。
そうですね。36万双のあった95年はたくさんの方が監禁されています。
私は8月~ですが、後藤徹さんが9月11日~、宿谷麻子さんが確か11月25日~監禁されています。
その他にも川嶋英雄さん、高須美佐さんも95年に監禁されています。