在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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今回は、就職してから、親に教会を明かし、最初のマッチングまで。
転勤族となった私が赴任した最初の赴任地は東北のE市 だった。その土地の方言だけではなく、東北各地の方言で電話がきて大変だった。キツイ方言、イントネーション(特にお年寄り)にとても苦労した。何度聞いてもわからず、恥をかいたことを上げればきりがない。
雪の多さにも参ったが、思っていたよりも市内の町並みはきれいで都会的だった。
E市に来てからも車、フェリー、時に飛行機を使い盆、正月、GWには北海道に帰省しており、親や親戚と疎遠になったわけではなかった。
E市 に来た年は92年、桜田淳子さんらの参加で知られる3万双の国際合同結婚式が8月にあった年だ。
92年の3万双(国際合同結婚式)
私は就職まもなく、また祝福を受けたいとは当時は考えておらず、出会って間もないE市の教会の人に「参加しますか?」と問われ、「いいえ」と答えた。
実際、祝福というものを受けたいという気持ちは薄く、「自分で伴侶を決めないなんて」という思いの方が強かった。
その一方、この教会に所属し続けるなら、決断すべき内容であることも理解していた。
それから、祝福について自問自答する日々であった。
誰かに言われるから受ける、そういうものではないし、そのような決め方をすれば後悔すると思った。
それで、必要な情報を得るためのコミニュケーションはあったがそのことでアベルに指示を仰ぐことはなかったし、その間特に結論を催促されることもなかった。
およそ1年半の後、ちょうど36万双があるという話がでた頃、心は決まっていた。
信仰を持とうと決心した時でもある。
祝福を受けるにあたりアベルから指導が入った。’両親に教会(統一教会員であること)を明かすこと’だった。
隠すつもりはもはやなかったが、92年~95年、年間300~400名もっとも「拉致監禁」による脱会説得が激しく行われていた年代だった。教会を辞める気配等微塵もないのにもかかわらず、けして大きくないこの教会でも何人もの友人、知人が帰省の毎戻ってこなかった。
否が応でも緊張が走った。
教会を明かすため、親には手紙を書いた。内容について、一応、チェックが入り、「情的じゃないね。事務的。」とダメだしをくらった。文才のないのはしかたがない、、、。でも、書き直しはなし。
数日後、夜、電話がかかってきた。電話は5時間強、明け方近くまで、途中弟にもかわり話をした。可能な限り、説明したが、現実を認めたくない親と、もう、どう説明したら良いかわからなくなっていた自分がいた。
95年まで時間はまだあった。継続して話し合うことでその日は、電話を終えた。
しかし、この構図は結局容易には崩れなかったし、崩せなかった。膠着した重苦しい関係が長く続いた。
当時の勤務状態から、簡単に休暇を取るということもできなかったし、説明のため帰省した仲間がそれっきり帰ってこないのも目の当たりにした。それゆえ、気軽に帰れる気持ちではなかった。
勝ち負けではないのだが母は弁がたち、言葉では勝てないという思いは子供の頃からあり、それも大きなプレッシャーであった。
記憶があいまいなのだけれど、それでも、それから一度も帰省をしなかったということはなかった。
母も一度、E市を訪れた。けれど依然として、話し合いに進展らしい進展はなかった。
E市に来て3年、95年春辞令が下り北海道のF市に転勤となった。
実家から車で2時間の距離になった。また、国際合同結婚式まで数ヶ月に迫っていた。
相手の写真を受け取ったのは何時だっただろう。確か、7月の中旬だったような下旬だったような、、、。とにかく韓国の女性だった。
実のところ、写真を受け取る前に義理のお兄さんという方(日本人)から電話をもらった。挨拶程度の会話をしたが、とにかく僕はまだ写真ももらっていないのでと言ってその時は電話を切った。
この頃はもう自分の意思は祝福に参加で決まっていた。
気持ちを説明するのは難しいが、’誰であって受け入れる’的な感覚からこの人なんだという思いに変化しつつある。
そんな感じ。
直接話すことはなかったが、韓国語のできる知人を介して「本人の意思、意向を聞いた。」
つづく
風連湖:砂嘴で根室湾と隔てられている汽水湖。
白鳥の飛来地として知られるが、オオワシ、オジロワシも越冬する。
風連湖のある別海町は人口およそ15600人に対し、乳牛、肉牛あわせて
11万頭を飼育する酪農王国。
ご当地ソング♪
風連湖 世のおばさま注目! なかなかのイケメンが唄ってますよ。
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