在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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すべて記号、黒塗りよりは、読みやすいのではないかと考えて、これから出てくる家族名、牧師名はすべて仮名とし、地名はアルファベットに置き換えた。
<生い立ち>
私、秀は昭和のある寒い日、父昭雄、母利子の長男として北海道A市にて産まれました。
その後は高校卒業までB町で育ちました。
父昭雄は祖父巌の長男です。
祖父は食品加工会社を経営、また、B町議会で議員を長年務めていた人物。
父の母、私の祖母静江は後妻であり、父には実母との間の兄妹の他、祖父の先妻との間の兄とお妾さんとの間の年の離れた弟がいます。
(父の腹違いの兄弟とは私は会ったことがない。今は亡き祖母の話では祖父が交際していた女性の数は把握しきれていなかったとのことであった。)
母利子は祖父利三、祖母澄子の長女。祖父利三はの機械販売会社を経営していた。
(現在は母の弟で叔父の利一が継いでいる。)
現在、父方、母方とも祖父母は他界して故人です。
私はB町で育ったが盆正月、また夏休みごとにはA市の祖父宅を訪れ過ごした。
ゆえに父方の親族よりも母方の親族の方により親近感を持ちながら育った。
B町で育った私は、幼稚園(カソリック系)、小学校(町立)、中学校(町立)、高校はC市の高校(道立)へ進学した後、札幌の大学を卒業した。
学生時代を通して、もっとも困難な時期は中学時代であった。学校は荒れ、いじめ、校内暴力が横行していた。私も幾度もいじめ、暴力に会い、タバコの火を手に擦りつける(いわゆる根性焼き)、暴力(鼓膜を破られる)等2年弱ほど悩まされた。
一方、その頃、祖父巌は他界しており、祖父の興した会社は経営に行き詰まりなくなっていた。父と母は別居になり、父は東京方面に出て行き、母は会社を新たに作った。当時は何の連絡もなく母の帰りは夜遅くなることもしばしばであった。自分が夕食をつくり、弟とその帰りを待つという日々だった。
C市の高校への進学も自分の学力では難しいと思われたが、絶対あいつ等のような連中のいないところへ行きたいとの想いで必死に受験勉強をした。また、いじめ等の克服には中学、高校時代道場通いしたことも大きい。有段者となり、高校に進学してからは手を出してくる輩はおらず、とても平和であった。
高校卒業後、札幌市にある大学に進学して18年暮らした実家を出た。
つづく
洞爺湖:日本で3番目に大きいカルデラ湖で2009年世界ジオパークに認定された。
また、洞爺湖サミットが行われたことでも知られる。
洞爺湖温泉もよい。
ご当地ソング♪
おんな洞爺湖ひとり旅
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