在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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一体、後藤さんが何をしたというのか。
監禁され、信仰、生命までも脅かされなくはならないほどのことなのか。
後藤さんが望んだのは、統一教会の信仰を持つこと以外にあったのだろうか。
米本 ところで、koyomiさん(裁判ブログの世話人)が語っていたことですが、一番大変だったのは兄嫁さんだったのではないか、と。
なぜなら、兄や妹と違って、兄嫁さんにとって後藤さんはそれほど関係のない人。先の話でいえば、8カ月前に義弟となった人なわけです。
付き合いもなかったから、兄嫁さんが後藤さんに兄弟愛のような愛情を抱いていたわけではない。
反統一教会のために、行きがかり上、後藤さんを監禁することになった。 監禁から1年もしてまだ後藤さんの脱会の意思がないことがわかった段階で、夫にもうやめよう、義弟のことにはもう関わるのはよして、自分たちの家庭を築いていこうと思ったとしても、当然のことです。
それなのに、夫に引きずられてずるずると12年間。お兄さんは、心酔していた宮村の呪縛から抜け出ることができず、自分の家庭づくりよりも弟の脱会のほうを優先した。兄嫁さんはヒステリ状態になったと思いますが・・・。
後藤 陳述書にも兄嫁から受けた数々の仕打ちを書きましたが、確かに兄嫁は恐ろしかった。兄嫁が近くに居るだけで動悸が激しくなるほどでしたから。
ヒステリックになると何をされるか分からない恐ろしさがあった。
監禁が長引くと「このマンションを維持するのにいくらかかってると思ってるの!」と非難されました。そんな非難するくらいならこんなこと止めてすぐに引き払えばいいでしょ、とこちらは言いましたが、全く聞いてもらえませんでした。
後藤 兄嫁がヒステリーになると、もう手がつけられない。声は金きり声。目はフォックスアイ。正直、怖かった。
例えば、こんなこともありました。私が座っていると、兄嫁が中に氷と水が入ったボウルを持ってものすごい形相で現れて、私の後ろ襟首をガバッと引っ張り、「いい加減目を覚ましなさいよ!」と背中に氷水を流し込む。兄嫁の陳述書にも書いてありますが、兄嫁にとっては私が何をやっても不真面目な態度をとっているとしか見えなかったようです。
<感想>
兄嫁さん12年以上も監禁に関わるとは思ってもいなかったのでしょう。
それに、まともな感覚なら’いち抜けた’と関わるのをやめて良い立場です。
なにせ、肉親じゃないのですから。
それなのに、12年以上も、、、。
教会に対するうらみつらみを逃げ場のない後藤さんにぶつけたのか?
それにしても、凄まじい。
体格の差などは関係ない、きれた人間というのは本当に、マジ怖い。
弁のたつ、きれた女性に言い返しでもしたら、まちがいなく、3倍、いや10倍返しだ。
声は金きり声。目はフォックスアイ。背中にガバッと氷水を流し込む。
当然、逃げるが勝ちなんだけど、監禁されているから逃げられない。涙
米本 そして、食事制裁に。
後藤 私が30日間のハンストをやった後、家族は70日間に亘ってポカリスエットと少量の重湯だけしか出しませんでした。
その時の苦しみはもう表現できないほどです。
いよいよ餓死の恐怖が迫り、たまらず家族に見つからないようにそっと残飯や生米を食べました。切羽詰まった末、家族に食事を戻すよう頼み込みました。
兄は、さすがにこのまま死なれたらまずいと思ったのか、「もうそろそろ食事を元に戻してもいいのではないか」 しかし、これを聞いた兄嫁は、いかにも残念そうに憮然とした表情で、「えー,信じられない!」この人は、本気で私を殺すつもりなのかと心底恐怖を抱きました。
一審判決では、治療費の全額が認められた。
米本 空恐ろしくなるような話です。
後藤 30日間のハンストをやった後、結局解放されるまでの約2年間まともな食事を食べさせない仕打ちを受けました。
栄養失調状態が続き食物のことが頭から離れない。その時の家族の雰囲気はもう空気が凍り付いているような感じでした。
元々悪い仲ではなかった兄と妹もここまでするかと。彼らの顔から一切の感情が消え、能面のような表情で私を見る目には憎悪が見て取れました。
いつまでも頑として信仰を棄てようとしない私に対し「自分たちの人生計画が狂ってしまったのはおまえのせいだ」、と目が訴えていました。家族がここまでするようになってしまったのは、もちろん松永牧師や宮村から指導され感化されたことが大きい。「マインドコントロールされ、別の徹になってしまっている」と思い込んでいたのです。
<感想>
兄嫁の鬼嫁ぶりに拍車がかかり凄すぎます。
この頃の後藤さんは餓死の恐怖と戦い、あまりに辛すぎて眠りにつく際、このまま天に召して欲しいと祈ったこともあると聞いた記憶がある。
そこまで追い込まれている中で、食事制限を解いてもらう切羽詰まったお願い。
それを無下に拒否する。
脱会をしない後藤さんへの制裁以外の目的はあるまい。
米本 お兄さんたち3人は、後藤さんがマインドコントロールされていたと心から思っていたのでしょうか。そして、そのマインドコントロールを解くのに必死だったのでしょうか。
後藤 ええ、そうだと思いますよ。
自分たちは統一教会からマインドコントロールされて入信し、活動させられていたのだ、と思い込んでいる。本当は自分で信じて自分の意思で活動していたのですが。とにもかくにも、マインドコントロールの呪縛から解けたのは宮村先生や松永先生のカウンセリングのおかげと思い込んでしまっている。これも本当のところは拉致監禁による強制的な思想矯正なのですが。今でもマインドコントロール論を信奉しているでしょうね。もしそれが間違いだと気付いたら、アイデンティティクライシスになるでしょうね。
後藤 兄たちが心底、マインドコントロール論を信じきっていたのは、偽装脱会をした時、真っ先に西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』やスティーブン・ハッサン著『マインドコントロールの恐怖』などの本を監禁現場に持ち込み、私に読ませた事実からも分かります。まあ、宮村や松永牧師に指示されて読ませたのでしょうね。
「おまえはこのようにマインドコントロールされていたんだよ」 と言いたいわけです。
何よりも兄が心酔していた宮村がバリバリのマインドコントロール信者です。
それは、宮村の共著『親は何を知るべきか』を読めばよく分かります。
類は友を呼ぶで兄たちの元信者仲間も、みんなマインドコントロール論を信じていたと思います。統一教会に入信したのを自分の責任では無く統一教会に責任転嫁するのにこれほど都合のいい理論は無いので元信者の皆さんの心にすっと入っていったのでしょうね。
彼らの仲間内ではマインドコントロール論に懐疑的になる環境はなかったと思っています。
ちなみに2冊とも私物。念のため、私は現役信者です。
<感想>
私はマインドコントロールは擬似科学だと確信しているが、もし、マインドコントロールがあるとすれば、後藤さんの家族の方がより強い「反統一教会のマインドコントロールの支配下」にあると思う。
大学教授や牧師の肩書きによる”権威性”により信じ込んでいるのか。
宮村氏に対する”恐怖”か。
宮村氏のやり方は恐怖政治的手法。拉致監禁から開放させる時期も家族に決めさせず、説得者(ディプログラマー)に決定権があるような絶対服従を強いている。
脱会させるためには何でもあり、しかも罪悪感はほとんどない。
「愛国無罪」という言葉があるが、まさに彼らのやっていることは「反統一無罪」だ。
せっかく?脱会したというのに崇拝対象が宮村にかわっただけ、人間性は凶悪になったようにさえみえる。
米本 インタビューの最後は寒々とした話になりますが、お母さんの病気、そしてその後亡くなられたことについてです。
まず、お母さんが重篤になられたときのことから、説明してください。
後藤 2012年5月頃のことです。福本先生(後藤さんの代理人)から電話がありました。「お母さんが病気で大変らしい。さっき、相手側弁護士から連絡が入った。見舞いに行ってあげたらいい」と。
病院名と住所が記されたFAXが送られてきた。数日後、病院に行き、主治医に説明を求めました。「脳が萎縮している。その上、大腸がんが併発している。意思疎通は難しい状態だ」。この先、長く生きられる可能性は少ないといった説明でした。
看護師に連れられ、母の病室に入るとベットに横になっている母の変わりように驚きショックを受けました。
後藤 痴呆については、2009年の11月頃の妹からの手紙に結婚の知らせと一緒に「お母さんの痴呆が進んでいます」と書いてあったので、理解していました。そのため、民事提訴の被告から外しました。
しかし、監禁解放後の2008年の7月頃に実家を訪ねたときには、母はそれなりに元気そうだった。そんなわけで、母のあまりの変わり様を見て、心底、驚きました。
米本 寒々しい話はまだありますね。
後藤 一人で見舞ったあと、日を改めて赤ちゃんと奥さんと3人で見舞いに行きました。母に何としてでも、嫁と孫の顔を見せたかったからです。母が認知できるかどうかということよりも、ともかく、母に見せたかった・・・。
宮村や松永の指導があったとはいえ監禁し続けた母に対して許しがたい気持ちは今もあります。しかし、それはそれとして、やはり母が生きている時に孫の顔を見せたかった。母にとって初孫でしたからね。
米本 そのとき、妹さんに会われたと聞いていますが・・・。
後藤 ええ、待合室に妹がいました。挨拶はしましたが固い表情で、妻と子供を紹介する雰囲気ではなかった。
米本 それから、お母さんが亡くなられた。
後藤 はい。2012年の9月20日に母が亡くなったことも、やはり、相手側弁護士から福本先生のところにFAXで連絡があって、初めて知りました。
それで、急遽、FAXに記された住所を頼りに、電車を乗り継ぎ遺体安置所に行き、母の亡骸と対面しました。
翌日、また相手側弁護士からのFAXで「喪主側としては徹氏に葬儀への参列をしてほしくない」という伝言が。監禁中亡くなった父の葬儀にも参加することができなかったので、(うめくように)結局両親の葬儀に参加できませんでした。
<感想>
米本さんがいうように寒々とした話。
しかも、係争中だから見舞いに行っただけでも、それほど家族に対して確執はなく良好な関係なのだとやられたりすることもある。実にやっかいだ。
村八分どころか村十分。
家族と統一教会を天秤にかけ、統一教会を取りやがった!としか思えないのだろう。
私事だが、弟から結婚の知らせは来なかった。私も出していない。
そもそも、どこに住んでいるのか知らないから出しようもないのだが、、、。
母はこう言った。「(弟の居場所を)教える必要がない。」
父と母は別居。(別居して20数年、いい加減離婚したのか?)
誰が亡くなっても連絡こないのは確実じゃないかな。
寒々どころか、読者が凍えるのでこの辺でやめとこ。
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