在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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後藤さんのインタビューの続き。
監禁されていた期間とは一変した生活。狭い監禁部屋の中だけの生活から、精力的に何度も海外に行く生活。私生活でも新しい家族を得ていく、、、。
米本 話題を変えます。12年間の単調な風景、暮らしとは言えないような暮らしから、監禁解放後は目まぐるしく風景が変わったと思います。とくに、海外に何度も出かけられたことです。これまで、何回、海外に。
COMMENT
作用反作用の法則?
なんか納得がいかない。
この試合に勝者はいない
<”動機が良ければ、手段方法は問わず” 批判している統一教会と相似形>
動機がいいか悪いか、統一教会の信者も拉致監禁する親族側もどちらも自分達が絶対正しいと思っている。
私はこう思う。作用に対する反作用の効果だと。(=因果関係における原因に対する結果)
動機がいいか悪いかはすべての作用と反作用の連携した結果で判断されるのではないかということ。
例えばAがBを騙した。BはAを殴った。
これはAの作用によってBが反作用としてとった原因と結果である。
反対に例えばAがBを褒めた。Bはうれしかった。これも原因によってもたらされた結果だ。
つまり主体側のマイナス作用にはマイナス反作用が、主体側のプラス作用にはプラス反作用が起こる、これが原理原則なのではないだろうか。
信仰と監禁の相関関係においてこれを当てはめてみると信仰する側が主体者で拘束する側は相対者である。
この理屈で言えば信仰が正しく組織が正しいなら(社会に対する作用)、反作用としての反応を見せた親族側も正しいということになる。
逆に監禁という無謀な手段で信仰を捨てさせることが間違っているのならば、信仰を持ってしまって社会的な脅威を抱かせてしまうほどに無謀な手段、無謀な金額を献金させるように仕向ける教会組織の在り方も間違っていたということではないのか?
反カルト(恨カルトでもある)のカルト性とはよく言ったものだ。
先の理屈で言えば反作用としての”反カルトの異常な行動原理”の中に作用を起こしめた”オリジナルカルトの異常な行動原理”も問われないといけないと思う。
そしてその源流をさかのぼると、日本ではなく韓国に行き着く。
つまり後藤さんもその親族も朝鮮カルトと日本反カルトの因果関係の板挟みにあった最大の共助者であると同時に犠牲者だったのだ。
コメント
そのため、ETSUKOさんのコメントと時系列的に逆になってしまっています。
作用と反作用の法則についての弁明
信教の自由に関して拉致監禁した強制棄教などというやり方が言語道断なのは当然ですし、それをそうせしめた勢力への断罪はなされるべきです。
しかしと同時になぜそういうことが起こってしまったのかという根本原因については誰も注目していない気がするんですね。
そう考えだすとこういう一連の拉致監禁強制棄教と信教の自由という問題がそもそも起こった背景を考えると、単純に拉致監禁した側だけの断罪ですべてが決着がついたとは思えないのです。
たとえ法廷上は決着がついても・・・
ですから前回のコメントの冒頭で最初に法廷外(つまりどちらにも肩入れせずに俯瞰的な視点で議論するという)からのコメントとして断り書きをしたんです。
これには絶対深い因果関係があるのではないでしょうか?
つまりここで言う作用とは原因のことであり、信者が教義を信じ組織に命令通りに行動したことです。
反作用というのは作用したことに対する反応であり結果のことです。世間一般がこの霊感商法や正体隠しの伝道などを反社会的脅威と捉え、警戒してきた世論を指しています。結果、その世論を味方にして先鋭化し救出作戦を強引に敢行してきたのが脱会屋を首謀者とした信者家族の強制棄教事件でした。
後藤さんのケースは、今まであったこうした両者の板挟みによってもたらされた信者と家族の悲劇の中でも12年というとてつもない月日をもって犠牲を強いられたもっとも悲惨なケースだったということです。
ですから、この信教の自由を脅かした事件の背景に焦点をあてると、神の摂理という大義名分のもとに刑法すれすれの際どい行為を統一教会の信仰を持った若い男女が一斉にやりだすということがもともと原因としてあったわけです。
逆にいえばそういう行為が行き過ぎていなかったならば、ここまで親戚や社会が反発を覚えることも純真無垢な信者を実効支配することもなかったといえるのではないでしょうか?
結局それは作用に対する反作用だったという結論になるのであり、反作用だけを糾弾すれば問題解決ではないということを言いたかったのです。