在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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後藤さんにはじめて会ったのはもう何年前のことだったかなぁ。
記憶が間違っていなければ2009年の8月だっただろうか。
印象に残ったのは、監禁中の心理描写を吹雪の中のホワイトアウトのような感じで描写していたこと。私流に言うと暗い深海に引きずり込まれた感じ、イメージ。
閉ざされていて、視界が最悪、極限に息苦しい。そんな感覚。
実感できる人は何人いるだろうかと思いながら聞いた覚えがある。
インタビューは
後藤インタビュー(上)-10年間毎日聞いた♪夕焼け小焼け♪から引用。
米本: 勝訴判決、おめでとうございました。良かったですね。
後藤: ありがとうございます。
米本: 以前、監禁の12年間より監禁から解放されてからの今日までの5年間のほうが長かった、と話されていたことがとても印象的でした。
後藤: いやぁ、12年間も長かったですよ。長さの質が違いますね。
米本: どういう風に?
後藤: 10年間以上、目に入るのは同じ壁と同じ天井、部屋にいる人も同じ。毎日夕方になると、どこからともなく 「夕焼け小焼け」が流れてくるのです。それを物憂げな気分で聞きながら、何もできない辛さ・・・怒りと絶望感、徒労感に襲われるのです。毎日、毎日。いま振り返ってみても、有意義に過ごした感覚がまるでないのです。
米本: 刑務所の囚人と同じ?
後藤: (語気を強めて)刑務所の人たちには刑期があるじゃないですか!刑期が終われば外に出られるという希望がある。しかし、私の場合、刑期がない。いつ終わるとも分からない。私はこのまま6畳一間の畳の上で死ぬのかと思っていました。社会から隔絶されている自分。その悔しさ、不安・・・。外の社会はどんどん変化し進歩している。そこから自分だけが取り残されていく。絶望的な思いで一杯でした。
後藤: ただ私の場合、信仰を持っていたので何とか精神が破綻せずに済みました。 あの状況で信仰がなければ、発狂するか、自殺するか、あるいは家族に暴力をふるっていたでしょうね。 「今生では結婚もできない、家庭も持てない。たとえ寂しい人生で死んでも、神だけはこの苦しみを知っていて下さっている。」そう思っていました。
イメージ マンションと夕暮れ
イメージ 鳥の群れ次はどこにとまるかな
<感想>
私が監禁されていたのは7ヶ月、後藤さんの12年5ヶ月からみれば短い。
夕焼け小焼け。私の場合、朝、夕に小さな鳥の群れが、向かいの大型マンションをあちらこちらと飛び移るのを次はどこに移るのか予想しながら眺めるのが限られた空間の中での楽しみだった。鳥達がどこともなく消えていくと一日も終わり、今日も出ることはできなかったと思った。
囚人と同じ?監禁のつらいところは何時まで続くかわからないところだ。
刑務所は刑期がある。無期だって相場がある(12~13年)いつまで続くかわからないというのは本当につらい。
私の場合は、信仰があったからというより、理不尽な仕打ちに屈したくなかった。
やつらのやり方に屈する自分。そんな自分自身は許せない。後悔する。それだけは嫌だった。
米本 それが解放されてからは?
後藤 これは、もう解放された自由の喜びにつきます。
行きたいところに行ける喜び。会いたい人に会える喜び。食べたいものを食べることができる喜び。情報を得たいと思えば、それを自由に手に入れる喜び。選挙があれば、自由に投票することができる喜び。心の底から自由の喜びをかみしめました。本当に嬉しかった。
この喜びの大きさは、自由が当たり前の世の中ではなかなか理解してもらうのが難しいと思います。
先の話に戻りますが、服役囚の場合、罪を犯して裁判所でキチッと裁かれ刑務所生活を送るわけです。拘束下から外に出ることができた喜びは私と同じかもしれませんが、彼らは罪を犯し裁判所で有罪判決を受けて刑務所に入っていたので自業自得と言えます。それに対して、私は統一教会に入信していただけです。だから、服役囚が監獄から解放されるのと喜びの質が違うと思うのです。
後藤 荻窪のマンションから追放される形で解放されたとき、思わず、自分が居たマンションを見上げましたよ。解放直後は食事制裁による栄養失調と長年の運動不足で体は衰弱していましたし、これからどうしたらいいか不安はありましたが、一方でその時の解放感と喜びは言葉では表現できないほどです。
外に出て、一歩踏み出したときにまず新鮮に思ったのは「知らない人が歩いている!」ということでした。
米本 どういう意味ですか。
後藤 私に対して敵意を持っていない人が普通に(路上を)歩いているという感覚です。
12年間、私の周りにいた人たちは特殊なごく限られた人たちでした。すなわち宮村や家族や元信者たちは、私の信仰に強烈に敵対する人達でした。10年以上監禁して説得しても頑として統一教会の信仰をいつまでも捨てようとしない。そんな私が憎たらしくてしょうがない。それが、彼らの言葉や態度にいつも表れる。
ですから、私にとっては彼らの存在自体がものすごいストレスでした。
それが外に出ると、私に悪い感情を持っていない知らない人が普通に通りを歩いている。こんなこと至極当たり前なんですがね。この感覚は、お分かりにならないと思いますが、実に新鮮でしたよ。
それから、監禁場所をメモするためにマンションのエントランスの段ボールの中にあったチラシを引っ張り出して、その裏紙に住所を石でこすって書き留めました。
米本 解放されてから、後藤さんは統一教会がある本部、渋谷の松濤を目指して歩くわけですが・・・。
後藤 このときは、とにもかくにも、腹が減っていた。約2年間まともな食事を取らせてもらえず飢餓状態でした。青梅街道を歩いていて、まず飲食店から漏れてくる匂いがたまりませんでしたねえ。
ラーメンの匂い、ドーナツの甘い匂い、焼き肉の匂い。
ショーウィンドーの見本料理に目が釘付けになりましたねえ。
しかし、一文無しで追い出されたのでどうしようもなかった。
後藤さんが目が釘付けになったのはこんな見本だろうか
<感想>
監視されることなく、外に出られる、たかだかこれだけのことが長期間叶わない。
違法行為とは関係なく、統一教会の信仰をもつこと自体が気に入らない。
そんな連中に囲まれ、過ごさざる得ない凄まじいストレスを感じる。
身体的にも激痩せするものもいれば、反対に激太りするものもいる。
ストレスの元凶がなくなり、新鮮な気持ちなったのもわかる。
チラシに石でこすって監禁マンションの住所を書き留めた後藤さん。
書くものがなかったから、私の場合は住所を暗記した。
後藤 あっそうそう。腹が減っていたと言えば、こんなこともありました。フラワーホームで食事制裁を受けていた時、飢餓と徒労感に苛まされながらも、唯一の慰めが夜寝るときの「日替わり丼」でした。今日は中華丼、明日は海鮮丼。
米本 ??
後藤 (ちょっと恥じらんだように)実は、その頃、毎晩、どんぶりに入った美味そうな丼物を食べることを夢想しながら眠りについていました。とにかく腹が減ってなかなか寝付けない。そこで、「もし、丼物を日替わりで食べるとするとご飯に何を乗せるか?」と自問自答し、ズーと想像を巡らせる。
連日の夢想の結果、定着した日替わり丼の一週間のメニューは牛丼、カツ丼、中華丼、親子丼、海鮮丼、麻婆丼、カレー丼の7種類でした。
その夢想は、かなりリアルで例えば海鮮丼の場合、イクラ、エビなど乗せる魚介類一つ一つを具体的に思い描き想像しましたよ。なぜ、丼物だったのか自分でもよく分かりませんが、多分、一番手軽にかき込むように食べられて種類が多いから想像しがいがあったのかもしれませんね。
後藤 だから、渋谷の松濤本部にたどり着いたとき、守衛の方がカツカレーを買ってきてくれたことが、ものすごくうれしかった。
肉も約2年間食べられなかったですからね。カレーのいい匂いが目の前から漂ってくる。それを冷たい目で見られることもなくおもいっきり食べられる。もう、うれしいのなんの・・・。
監禁下での食事制裁中、最もきつかったメニューはカレーでした。家族は同じテーブルでカレーをよく食べていたのですが、飢餓状態の時、特にカレーの匂いは強烈でした。食事の後もしばらく部屋にカレーの匂いが残るんですね。それが、またたまらない。
さらに、家族はいつもカレーのルーを残して翌日のお昼にカレーうどんにして食べる。もう、喉から手が出るほど食べたかった。
そんなわけで、解放後なんとか本部にたどり着き、いつも食べたいと思っていたカツカレーがパッと目の前に出されたとき、瞬時に神の計らいを確信し、深く感動しました。無宗教の米本さんには理解できないでしょうが(笑)。
夢にまでみたカツ丼と後藤さん
<感想>
寝ている時だけが、監禁されていることから解放される唯一の時間。でも、腹がすきすぎて寝れない。食事制裁は拷問と云っていいと思う。
後藤さんには申し分けないと思うことがある。
監禁中、私が断食をしなかったことではない。
はじめて、後藤さんの話を聞いた時のこと、12年5ヶ月の全容を理解できていなかった私は、
(基本的に体力を奪うので監禁中の断食はしないのに)何故、断食をしたのか?と詰問した。
後藤さんは「いや~、まぁ~」と苦笑い。
でも、その後、8年間は「断食」などしていない事実。断食に至るまでの長き時間のことを考え、他に打つ手がなくなりはじめたということがわかり、 なんともひどい質問をしたものだと反省した。
米本 話を戻しますが、監禁の12年間と自由になった5年間のことです。
後藤 監禁からの解放後、自由を享受する喜びはありましたが、一方で長い間社会から隔絶されていたため、いろいろ苦労がありました。 何しろ、住むアパートはないし、仕事もない。履歴書もまともに書けない。 監禁から解放されてから牛乳宅配の仕事が見つかりましたが、仕事上、車の運転が不可欠だった。ところが、運転免許証がない。監禁中、免許証が失効していましたから。これには、ほとほと困りました。そこで、改めて免許を取らなければならないけど、一から教習所に通うお金がない。そこで、一発試験で取ることにして、比較的お安いそのための講習に通いました。12年間のブランクはともかく大きかったです。皆が手にしている携帯電話に驚きました。パソコンは旧型のものをリサイクルショップで2000円で買って使い方を覚えたり。布団や鍋釜などの生活必需品の多くは教会員仲間から譲ってもらいました。これは、本当にありがたかったですね。
<感想>
たいした話ではないが、12年余りの監禁生活を経て、携帯電話に驚いたという後藤さんの話を聞いていた。
私が監禁されたのも1995年8月~、後藤さんの12年の監禁生活が始まる1ヶ月前、当時は携帯電話はそれほど普及していなかった。
私も当時持っていたのはポケベルだった。
そんな後藤さんから絵文字入りのメールがきた時にはたいそう驚いた。
それにしても、12年のブランクを経て、一から生活いや人生設計を立て直す、大変な作業だ。
拉致監禁は、ただ信仰を脅かすだけではない。職業、将来の伴侶を奪い、時として新しく築いた家族をも引き裂く。
米本 12年間よりこの5年間が長かったというのは、上から目線で申し訳ないけど、後藤さんが成長したからではないでしょうか。子どもの頃は時間が経つのが長く感じられるけど、大人になるとあっと言う間に1日が過ぎていく。それは、子どもの頃は様々な刺激を受け、成長するがゆえのことではないかと思っています。ぼく個人のことになるけど、大腸がんになっていろんなことを学びました。入院期間は5週間。退院してから12週間(インタビュー当時)になりますが、入院中のほうがものすごく長く感じられた。
後藤 (眉間に皺を寄せ、沈んだ調子で)確かにこの5年間での経験で、私の認識は大きく変わりました。特に人に対する見方が変わったと感じます。
例えば、こんなことがありました。監禁解放後の入院中、かつての信仰仲間が見舞いに来て下さって本当に嬉しかったのですが、その中に一人の女性がいました。
久しぶりに会った彼女と少し話をしてみると、私が監禁される前に知っていた彼女とはだいぶ違っていました。彼女は統一教会の信仰から少し離れているような状態でした。
彼女の変貌に私はとてもショックを受け、正直、怒りを覚えました。言葉には出して言いませんでしたが、「いったいどうしたっていうんだ!俺は監禁されながらも自分の信仰を貫くため12年間も忍耐してきたっていうのに!」 といった思いが湧いてきました。
自分が死線を彷徨いながらも苦労して信仰を全うしたとの強烈な思いが、変貌した彼女への怒りとなったのです。
私は、わざわざお見舞いに来てくれた彼女に厳しい言葉をまくし立て、連日、彼女のためによかれと思い覚えたてのメールで一方的に文先生のみ言葉の一節を送りました。そんな私の言動に彼女が反発したのは当然の成り行きでした。彼女とはそれっきりになってしまいましたが、あの時の私は異常でしたね。「信仰傲慢」だったのです。今となっては深く恥じています。 今では、人に対して多角的に見ることができるようになったと思います。
米本 そうなった契機は。
後藤 宿谷麻子さんの存在は大きかったですね。宿谷さんに関しては米本さんの本『我等の不快な隣人』によって初めて知ったのですが、ものすごく衝撃的でしたね。統一教会を拉致監禁によって辞めた元信者で、その後、統一教会にも拉致監禁グループにも批判的になった方です。
「拉致監禁をなくす会」の役員会などで交流を持ち、私の裁判を支援する裁判ブログの世話人にもなって頂きましたが、こういう人もいるのかと思いましたね。koyomiさん(裁判ブログの世話人)もそうです。
このような交流がきっかけとなって、人に対する見方が変わり視野が広がっていったと思います。
在りし日の宿谷麻子さん
<感想>
私にとっても、宿谷さんの存在は小さくない。生前お会いすること叶わなかったが、『我等の不快な隣人』を通して知った。拉致監禁がこれほどまでのPTSDを引きこす原因になり得るのかと驚愕すらした。
そして、著者の米本さんをはじめ、オーストラリアのYOSHIさん、後藤裁判を支援する裁判ブログの世話人のKoyomiさん、小川さん、、、、。立場の異なる人達との交流(ネット上も含め)は視野を広げてくれる。
米本 どんな風に?
後藤 拉致監禁の被害といっても単純一様ではなく、その被害者個々人やその状況によって千差万別であるということです。
例えば、拉致監禁の2次被害というものもあります。統一教会から脱会させるために信者を監禁するのが1次被害。そして、拉致監禁から逃げ帰ってきた信者が、同じ信者仲間から冷たくされ傷つけられたという事例が2次被害です。
それだけでなく、3次被害ということもある。
これは、拉致監禁の被害者が自分の体験談を話すなどの拉致監禁を撲滅するための様々な活動を行うときに封印してきた拉致監禁体験が蘇り、PTSDが発症してしまうという事例です。だから、拉致監禁の被害者と対面するときには、細心の注意を払うように心がけています。
米本 確かに、2次被害は多いです。火の粉ブログのコメント欄に投稿されている黒い羊さん、秀さんもそうです。拉致監禁から逃げ帰ってきた人で、教会が温かく迎え入れたケースのほうがむしろ少数だったでしょうね。
3次被害もそう。拉致監禁体験者である埼玉の女性教会員は、上から拉致監禁反対のデモと集会に参加しろと言われて、嫌で嫌でしかたがなかった。それでどうしたらいいかと相談を受けたことがあります。
また、韓国の女性教会員は集会に参加することを強要され、それがもとでかなりひどいPTSDになってしまった。
<感想>
2次被害について:私の名前も出ているので少しだけ概要を話すと、監禁から出てきてから、反対派のスパイと影で言っている奴いるというのを、大学在学中に学生部長だった人物にあった際に聞いた。誰とまでは言わなかったが「秀さんがスパイだって言っている人がいるよ。」と。アホくさだが、教会批判(霊感商法やら)も平気でしていたので、煙たがれたのだろう。
最近、この話をしたところ、アメリカの拉致監禁被害者の一人からはこう言われた。
「(笑)本当にスパイなら、秀さんみたいに(教会批判やら)なんか言いませんよッ!静かに言うことを聞くふりをして、、、密かに情報を流す。それがスパイでしょ。」
しかし、やっとの思いで戻ってきても、いろいろ警戒されたりなのだ。(フ~ッ。)
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COMMENT
超上からの目線
カレーさえも食べさせてくれないんですか。肉も2年間食べていなかった・・・家族がそこまでして身内に辛い差別をして、無理に信仰を捨てさせようとする。
後藤さんの信仰を捨てない根性もある意味異常すぎますが、それをまた寄ってたかって奪おうとするのは常軌を逸した人間のすべき行為ではない。
ほんとにため息が出ます。こんなことが幸せを共有するはずの親子兄弟間で起こることに対して・・・しかも本来は穏やかな人と人の和をどこの民族よりも尊ぶ日本人同士の間でのことですから。
そこで個人的な意見として問責重大の順に列挙します。
1.家族をそそのかして行動を駆り立てつづけた脱会屋
2.社会的常識を逸脱して弱者(末端信者)の救済を無視し続け問題化させてしまった統一教会本体
3.世間体と脱会屋に惑わされて我が子の人格を尊重し信頼できなかった親や親族
実は4番目にご本人としようとしましたが、一番の被害者に対してあまりに気の毒なのでやめにしました。
しかし信仰を捨てる自由もあるという点でそういう選択をしないで徹底的に抵抗したという意味において、犠牲の度合いが深く期間も際限なくなった事も確か。ご本人の徹底抗戦の選択肢がこういう結果を招いている面もあるかと思いました。決して後藤さんを責めているわけではありません。
一番の犠牲者には違いないです。
2に関しては1と3の要因を誘発させたという点で根が深く重大だと思います。
4も2に従属しており、2を背負って立ち1と3に対抗している点で責任の一端があるといわざるを得ない。(むろん一人間として後藤さんは勝訴すべきと信じてはいます)
こうしてみていくと法的な意味ではなく、監禁した、しないの立証から離れて、いったい誰がこの一連の問題に最終的な責任を負えるのだろうかと考えると、統一原理を信じる一信者として複雑な思いがします。