「おっしゃっていることはわかりますが宣伝文句の内容といい、死んだ亭主を好む女性と言う表現も冗談ぽく、読んでいて気分が良くありませんでした.s教会が非常に傲慢なところであるという印象をもちます.悲しいです.」
に対して
「私も書いてから「あれはまずかったな」と思っていました。ご指摘ありがとうございます。これからは注意します。」
というように書かれています。
私も読んで、(エルダーさんがとても有能な方であることは疑いようがありませんが、)世界宣教本部長という立場があるのだからこのような表現については慎むべきだと思いました。
これ見よがしに書いている某ブログもありますが、、、。
さて、離婚ですが、
エルダーさんのブログを読んでみるとこう書かれています。
「サンクチュアリ教会では、「あなたはこうしなさい、ああしなさい」とは言いません。出来るだけ多くの選択肢を紹介して、それぞれの選択肢がもたらすと予想される結果を十分説明しますが、最後の決定はあくまでも個人の責任です。」
つまり、選択肢は紹介、選択肢がもたらす予想される結果についても十分説明するけれど、最終決定は各個人に委ねられるということです。
離婚に対する私個人の考えは「当事者の本人同士がよく考えて結論だすべきもの」です。
そして、個々の事情でガラリと様変わりするということです。
<聖書に根拠を求める>
マタイの福音書19章
”19:1イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。 19:2すると大ぜいの群衆がついてきたので、彼らをそこでおいやしになった。19:3さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。 19:4イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 19:5そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 19:6彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。 19:7彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 19:8イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 19:9そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。 19:10弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。 19:11するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。 19:12というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。”
上記の聖句を元に「姦淫」と同じだという人がいますが、ならば、つづきの聖句を元に生涯独身になるべきであろう。
反統一で知られる村上密氏はマタイの福音書をつかいながらこう書き記している。
<引用はじめ>
<
姦淫とは、結婚している夫或いは妻が他人と性的関係を持つことである。姦淫はモーセの十戒で禁じられている。~中略~夫から精神的・肉体的に虐待されているクリスチャンの妻は、離婚できないのか。~中略~牧師が牧会上相談を受けた場合、耐え忍んで、未信者の夫を信仰に導いた美談を話す。そして、夫を赦しなさいと説得する。この説得が、精神の破壊、自死に至るようなケースが起きても、それを話すことはない。相談者の人生を本当に考えているとは思えない。>
<引用おわり>
つまり、村上氏は「不品行のゆえ」以外の理由の離婚を示唆しているし、その離婚を「姦淫」だと責めてはいない。
さらに面白いなと思ったのは、この一節。
<引用はじめ>
<「神が結び合わせたものを」とあるが、世の中には、相互の愛で結ばれていない結婚もある。主人と奴隷の関係に等しい場合もある。夫が妻を非倫理的仕事に強制的に就かせている場合もある。事実婚もある。これらを、「神が結び合わせ」と言えるだろうか。カルト化教会では、牧師が一方的に結婚を勧める場合が多くある。これを「神が結び合わせ」と言えるだろうか。結婚してから相互の愛が深まり、その結婚を相互が受け入れている場合は良いとしても、結婚生活で苦しみ続けている場合は離婚を認めている。判断に後悔はしていない。>
<引用おわり>
「カルト化教会では、牧師が一方的に結婚を勧める場合が多くある」まあ実名を避けているが統一教会の合同結婚式のことを言っているのは明白。
注目は「結婚してから相互の愛が深まり、その結婚を相互が受け入れている場合は良い」と述べている点。
ちなみに村上氏が関わった離婚の事例はこのような感じだそうだ。
1、夫が妻に対して虐待を続け、子供を虐待に加わらせた。(ママ)
妻の精神的病は深刻。強制的に引き離してかくまい、後に離婚。
2、夫から首を絞められ、危うく死にかけた。調停で離婚。
3、夫が働いた給料を出さない。また、妻の働いたバイト代を取り上げ賭けごとに使う。協議離婚。
4、夫或いは妻の不貞が続く。離婚。
5、夫或いは妻としての責任の放棄。協議離婚。
6、宗教的理由。裁判で判決後離婚。
殺人未遂、DV、博打、不貞、5は夫婦生活かなが離婚の理由のようだ。
6については「拉致監禁(保護説得)」擁護派は”結婚してから相互の愛が深まり、その結婚を相互が受け入れている場合”の夫婦(子供がいるケースすら)をも拉致監禁し無理やり引き離してきた。また、それを見て見ぬふりをしてきたことを忘れることなかれ。
<堕落>
夫あるいは妻に不貞があった場合、たしかに恩赦があるかもしれないがそれも度というものがあるだろう。1度の過ちであれば再構築の可能性もあるであろうが繰り返す(不貞が続く)のであらば話は変わるし、どの程度まで許すのかはそれこそ他人が踏み込める領域ではない。
ブログからはエルダー氏は「堕落」は離婚理由にでき得ると言っているとしか読み取ることはできない。
<離教>
極めて、分かり易い事例は、「拉致監禁」等で夫婦どちらが棄教した場合。
棄教した方は、信仰を下に決めた結婚を維持するつもりは基本ないのだから必然的に離婚になる。マタイの福音書の熱狂的信者はいつまでも復縁を待ち続けなくてはならないのだろう。
微妙な問題だけれど、サンクチュアリ教会の考え方からすると韓鶴子お母様は「堕落」した立場にある(この場合の意味では「堕落」=「不貞」とはならないと思う)わけであるから、そのような立場から考えた場合エルダー氏の主張するところを理解することはできる。
家庭連合サイドにいる配偶者から離婚届けを突きつけられた例もあるそうなのでどちらも相手側は「堕落」したと見ているということだろう。
大多数の事例は、離婚せず場合によっては”隠れ”になっている状態と推測する。
当事者のいずれかが強硬でどうしても離婚となった場合それを止める術はなさそうだ。
<子供が作れない>
これもとても繊細な問題ですが、具体的例を考えると見えてくる風景もだいぶ変わります。
この事例の典型は不妊を理由に夫もしくは妻が追い出されるというものでしょう。
もし、そうであればいかがなものかと思うのは至極当然だと思います。
しかし、例えば夫婦いずれかに不妊原因が見つかった場合(特に後になって)、その当事者(不妊原因のある方)が強く離婚を望んだ場合はどうでしょう?
当然ですが、教理的にも基本的に相手が養子よりも実子を望むことは理解するでしょう。
それでも、大抵は一緒にというかもしれません。しかしながら、当事者の意志が固ければ離婚もやむを得ないかもしれません。
それから、簡単に「養子、養子」という人に苦言です。
「養子」をだす、もらうというのは簡単なことではありません。
軽々しく言うな!
5人、6人とお子さんがいて経済的に余裕がなかったとしても、我が子を養子に出すなんてできない方もいます。
家庭連合の中でもお子さんができず養子を待ち望んでいるカップルはたくさんおられます。
でも、残念ながら養子縁組に至らないカップルも多いでしょう。
日本なら血縁者以外からの養子をもらうことはアメリカより難しいのではないでしょうか?
そのアメリカとて、弁護士が入り、ソーシャルワーカーが関与(人身売買防止のため)し、養子をもらう方は養子という養うに十分というだけでなく出すほうよりも経済的に豊かであることなど様々な審査を通過、パスしなければなりません。(すべては子供の幸福権のため)
それに子供のことや出す側の精神的ケアを考えた場合、その昔あったような三位基台(祝福の際決められ3組のいずれかに子供ができない場合他のカップルから養子を出す)というようなシステムはかえって問題が多いと言えるでしょう。
アメリカのことしか知りませんが、それゆえサインを交わす書類には”実父母は何時でもいかなる理由でも養子を取り戻せる”という項目があり、法的に定められた権利となっています。
養子を出したけれど精神が不安定になり返してもらうという事例は実際(教会内の事例だけでなく)あります。
いろいろと書きましたが、
最後の決定はあくまでも個人の責任に尽きると私は思います。
どの世界(教会以外でも)でもさすがにこれは離婚した方が良いのではと思えるケースがあります。でも、それを最後に決めるのは所謂アベルではなく当事者自身です。
COMMENT
人は見たいところだけ見て聞きたいところだけ聞く
一つの事件、事実でも被害者と加害者では状況説明で言う内容が違ったり、記者によって自分の思いが微妙に加味されていて、どの記事をみるかで雰囲気が違ってきたりします。
受けた感想は人それぞれですが、そう思った、出典先の文章もその部分だけでなく、全体が把握できるようにすることは大切ですね。