730日。これがどういう数字なのかピンときた方はどれほどいるであろうか?1年は365日である。730日はその2倍、つまり丸2年だ。今から2年前の1月2日に何がおきたのか。石橋正人君が帰省した実家から、所属していたの家庭連合(統一教会)の教会に何の連絡もなく、忽然と姿を消し行方不明になった。 石橋正人さんこれに対して、国際的人権団体「国境なき人権」は2014年2月21日にニュースレターを出した。
「国境なき人権」が現在失踪中の被害者に関するニューズレターを発行
ニュースレターでは
「彼は正月以来、所属している新宗教運動から強制的に脱会させるために、家族によって意思に反して拘束されています。」と記されている。
「国境なき人権」のニュースレターだけでなく、次の事実からも石橋君が意思に反して拘束されていることがわかる。
「石橋君の住んでいたアパートはずっと家賃滞納のままで、大家さんも大変困ってるそうです。」~事情通もし本当に、石橋さんが自らの意思でご両親と話し合いをしているだけなら家賃を滞納したままということはないでしょう。社会人としての常識の範囲内ですから、自ら賃貸契約を解除し家財を実家に移す等します。職場があれば、マザコンでもあるまいし本人が直接連絡するのが常識。しかし、石橋さんから連絡があったという話はありません。「拉致監禁」肯定派の所業は、棄教させるためには周りの迷惑、社会常識など関係なく”小事”ということなのだろう。
いいか、2年だぜ。2年。
よって、石橋正人さんが自らの意志に反し拘束されているのは間違いない。※この場合の「拘束」は、後藤裁判判決同様「監禁」と同義語です。
これに対して、家庭連合は昨年ネット上で「石橋正人さんの救出を求めます。」というペティション(請願)を始めました。しかし、この請願は現在3905人を集めていますが、この請願が活用されたというニュースはなく、現在は開店休業状態だ。加えてこの請願は後藤徹名で開設されており、けして家庭連合(統一教会)が開設したものではありません。たとえ、家庭連合(統一教会)の名前で開設すると、「キャンペーン」だとという誹りを受けることを想定してのことであったとしても、集まった署名も僅か3905人(日本の家庭連合の信徒数は何人?)如何に関心がないかの証左と言って良いでしょう。さらに、頭が爆発、怒り心頭になりそうなのは、所謂「拉致監禁(反対)プロジェクト」なるものの人員、予算ともになくなり、人員のほとんどはそのまま「サンクチュアリ(分派)対策」要員にスライド人事したということだ。(この件については昨年夏に関係筋から聞いた。)なぜ、昨年家庭連合に脱会届を出してまでサンクチュアリに大移動する現象がおきたのか?
考えていただきたい。いろいろな理由があり、単純ではないが、その一つが家庭連合が信徒一人一人を大切にしない組織であるということは自明である。言い換えれば家庭連合が信徒を使い捨てにしてきたツケが、大量脱会という形で表れたとも言えよう。
一般社会の会社と宗教団体は単純比較できないであろうが、社会一般でCS(顧客満足)を調べると、最初は商品に対する品質やサービスそのものに対する不満、クレームが発生する。
しかし、最終的には顧客自身が自分は(顧客として)大切にされているかどうか、そういう満足度に対するクレームになる。
信仰がない云々という能書きも聞こえてきそうだが、至極冷静、冷ややかに分析すれば、幸福を感じられない宗教ならその宗教は自然淘汰されやがて消滅するしかあるまい。
現に家庭連合(統一教会)でも仮想空間である家庭連合(統一教会)村でも「拉致監禁問題」に対する家庭連合信者の関心は薄い。
残念ながら、家庭連合だけでなくサンクチュアリ教会、顕進様を支持するグループもその他の分派も「拉致監禁問題」には関心が高いとはとても言えない。
どの分派もグループも、世間一般からみれば、あえて所詮というが家庭連合いや統一教会の亜流でしかないのだ。よくよく、肝に銘じておくべきである。区別などされようもない。明日「拉致監禁」されるのは、あなたかもしれないのだ。
無関心なことは、記事に「拉致監禁問題」を扱えばアクセス数、記事の人気ランキングも見事に落ちることでも証明できる。
(できたら、この記事はランキングが上がってほしいが、、、。)
ともあれ、
無関心と
組織の論理によって、
「一時はかなり狭い範囲での監禁場所を特定できていた。」~情報通 という石橋さんの居所はわからなくなり救出の目途は立たなくなってしまった。
さて、皆さんはクリスマス、お正月をどう過ごされただろうか?
楽しく過ごされたのであればそれはとても良かったと思います。
もちろん、私も家族や友人と楽しいひと時を過ごしました。
でも、
あの息苦しく、重苦しい監禁マンションの中で過ごした95年のクリスマスと96年の正月は生涯けして忘れることはない。石橋さんは、そのようなクリスマス、正月をあと何回過ごせば解放されるのであろうか?
石橋さんの解放をお祈りいたします。
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[13回]
COMMENT
統一教会の伝統=金以外はいざとなったら薄情無関心
実際の話世界中の食口の間でも、おそらくほとんど話題にも上がらず、関心がないというのは、我々一人一人も他の食口から関心がもたれていないし、石橋さんと同じ目に合っても同じように無関心の彼方に追いやられているだけだと感じるから。
それは統一教会=統一家庭連合ならではの、正真正銘の偽善の文化の一部なんだと思う。自分だけが例外とは思わない。自分も確かにその一部分でもあり、またはいざとなったときは無関心の対象にもなりえる立場なのだと思う次第であります。
25年前の信仰最初期に上野駅の地下道で伝道していた頃が懐かしい。
ある日左翼系の若造二人組に詰め寄られているとき、遠巻きに見ていた一緒に歩んでいた兄弟姉妹が、いつの間にか館に帰ってしまっていたのを思い出す。リーダーも含めてみんなです。私一人寂しく館に帰ってきたんですよね。似たような体験をしている兄弟姉妹は大勢いるはず。そういうことでつまずいて離れた人は数知れないはず。その最も極端なまでに寂しい例が拉致監禁に対する無関心な反応なのかな。
時がたてばたつほどに思わされる。
教わる教義やみ言葉は最もらしく素晴らしいのだが、それを学んできた人にふさわしい人格が備わっているとは思えない人が多すぎなんじゃないかって。いざというときに人間のリアルがにじみ出る。
我々食口にとってみ言葉は結局読むためのものであり、飾り物なんでしょう。自分はやっていると自覚しておくために条件のために読んでいるだけなんじゃないかな。自戒を込めて言わせてもらうと。
読んだら目的完遂と勘違いしている。いざというときの行動とその結果で評価されて初めて学んだことが完結しているはずなのに。