5月21日の
“洗脳報道”は滑稽だ! 芸能界の能年玲奈も、角界の貴乃花も、洗脳ではない!?
という記事からです。
NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』のヒロインを演じたことでスターダムへと駆け上がった女優の能年玲奈が「洗脳騒動」とやらに巻き込まれている。報道によると、『自身を代表とする個人事務所を設立していた』『所属事務所に内緒なのは業界のルール違反だ』『背後にいるのは「生ゴミ先生」こと演技指導者の滝沢充子氏ではないか』『新会社には彼女も重役に名を連ねている、どうやら能年は彼女に洗脳されたらしい』……というものだ。 これらはメディアによって一律に「洗脳」の烙印を押された。だが、それは本当に「洗脳」の定義で正しいのだろうか。また、ケース・バイ・ケースを無視しているのではないかと、どうにも疑問が残る。
そもそも精神医学では、洗脳(Brain washing)とは、強制性や暴力、違法性を伴う行為のことを指すようだ。たとえば、監禁、脅迫、暴行、拷問、飢餓化、薬物投与などの手段を用い、対象者の精神や思想を無理やり改造する行為のことである。これはどう考えても犯罪なので、仮に著名人が“洗脳された”とすれば、本来なら大事件である。
「監禁」「脅迫」「暴行」「拷問」「飢餓化」「薬物投与」これらは、見事に反カルト、反統一の脱会請負人や牧師がやってきたことである。彼らのやってきた、やっていることは、この記事での洗脳の定義に照らし合わせば「洗脳(ブレインウォッシュ)」そのものだと言えよう。後藤裁判の判決(事実認定)からもそれはわかる。(事実認定は最高裁では争点とならない。)脱会請負人の宮村峻被告や松永堡智牧師が主導し行った「保護」なるものは「違法な拘束」すなわち「監禁」である。”力づくで取り押さえる”などは「暴力」の部類であるし、ガリガリに痩せこけるまで続けられた「食事制裁」は「飢餓化」、ある種「拷問」といってもよいだろう。 解放直後の後藤徹さんがガリガリであったのはまぎれもなく事実である。
さらにおぞましいのは、精神病院送りと必要のない「薬漬け」、「薬物投与」。そして、レイプという「暴行」「拷問」である。 丸山隆
統一教会の女性信者をレイプしていた丸山隆の性暴力の描写
<丸山は、彼女が脱会届を出した後の同年10月21日午後5時頃、L子さんを自分が住んでいた東京都練馬区のマンションに移した。そして同日午後10時半頃、L子さんがカギをかけて入浴していたところ、全裸の丸山隆は合カギでドアを開いて浴室に入り、L子さんに襲いかかった。
L子さんは抵抗し、一度は丸山をドアの外に突き出した。しかし丸山はなおもドアを開いて浴室に入り、L子さんに襲いかった。
L子さんは恐怖のあまり心神喪失の状態に陥ったところ、丸山はL子さんの局部を洗うなどの猥せつ行為をした。
丸山はL子さんを寝室に連れ込み、そのあとあらかじめ強姦の目的で敷いておいた布団の上でL子さんを犯した。丸山は、L子さんが逃げたら、テレビで放映すると脅迫した。
L子さんは逃げられず、同年11月5日から翌52年1月24日までの65日間、このマンションに監禁されていた。その間丸山はL子さんを何回となく犯した。>
そして、多くの反対牧師が使った脅し文句「(脱会しなければ)ここから出られない。」とか「警察を呼んでも助けてくれないぞ。」などは、れっきとした「脅迫」だ。
これに対して、マインドコントロール(Mind control)とは「強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと」を指すとされている。一般的にこのような手法で、対象者に虚偽を信じ込ませたり、己の利益となる方向へ誘導したりする行為のことを「騙す」「欺く」という。仮に強制性や暴力がなかったとしても、こうして相手の心理を読み、言葉巧みに操って錯誤に陥らせ、「財物ないし財産上の利益」を処分させた場合は刑法の「詐欺罪」に問われる。だが、あくまで物的金銭的利益が伴わない場合は、違法にはならない。
そういう意味で、マインドコントロールは犯罪スレスレの行為ともいえる。そもそも対象者の心理を操ろうと画策する側は、何らかの私的な目的を動機とする場合が多い。たとえば、労働の供与や性的搾取、著名人の場合はその名声の利用などである。しかも、結局は高額な商品・サービスの購入や多額の寄付へと行き着く場合が少なくない。
このように「洗脳」と「マインドコントロール」は異質なものだが、日本では混同されている。しかも、日常会話の中では、妄信やマインドコントロールどころか、何かに感化されたという程度のことで、「あいつは○○に洗脳された」とも言う。つまり、あいつは馬鹿だ、正気ではない、アブノーマルだ、と言えば直接的過ぎるため、そのニュアンスを込めた非難・悪口として「洗脳」という用語が使われているのだ。
それならば、家庭や学校で行われている教育や指導もマインドコントロールの一種ではないのか、という意見がある。広義にはそういう見方もできるかもしれない。しかし、両者には決定的な違いがある。それが行為者の動機や目的だ。つまり、対象者当人と社会全体の利益のためなのか、それとも行為者の私利私欲のためなのか、という違いである。もちろん、人格の向上や将来のためを謳いながら、実際には親や教師が子供にエゴを押し付けている例はあろう。ただ、それは教育を装っているにすぎない。
監禁されたマンションの中で「先生(反対牧師)の言われるマインドコントロールというものがあるとするなら、すべての宗教、思想・哲学にはマインドコントロールがある。」と私は言い、反対牧師は同意せざる得なかった、これにより、”マインドコントロールがあるから統一教会はカルトだ”という彼らの主張は崩壊した。私自身はこのことでマインドコントロールについては決着がついている。
現在に至っては、統一教会関連の裁判においても、もはや”マインドコントロール”は出てこないし、日本脱カルト協会理事の西田公昭氏も、氏の唱えるマインドコントロール理論への批判に対して、「マインドコントロール論再論を書く」としながら10数年、、、。新たなマインドコントロール理論が発表されたという一報はいまだ聞かない。
マインドコントロールか否かを動機と目的に求めるようでは、もうそれこそカルトチック。
誰しも、自らの動機や目的が私利私欲とは言うまい。
”社会全体の利益”という概念も時代により変遷する、極めて主観的で恣意性に富む内容であろう。
それぞれの信じる大義名分を動機や目的とするだけに過ぎない。
また、世の中には、職業やアート、スポーツの分野などにおいて、強い師弟関係というものが存在している。弟子はたいてい師を尊敬し、憧れている。そういう場合、師が何かを話すと、弟子はその考え方に感化されてしまう。よって、師が公私において弟子に強い影響を及ぼすことは避けられない。だが、このような、やや過剰なケースであっても、あくまで師が目的を見失わない限りは、やはり教育や指導の範疇だと言わざるをえない。
つづく
特に反カルト・反統一、拉致監禁擁護の諸兄には、逆に統一教会関係者が、反カルト、反統一の脱会請負人や牧師がやってきたことと同じことをした場合、「家族の問題だから」、「ちょっとやりすぎただけ」と言えるのか考えていただきたい。
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