在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
一体、後藤さんが何をしたというのか。
監禁され、信仰、生命までも脅かされなくはならないほどのことなのか。
後藤さんが望んだのは、統一教会の信仰を持つこと以外にあったのだろうか。
米本 ところで、koyomiさん(裁判ブログの世話人)が語っていたことですが、一番大変だったのは兄嫁さんだったのではないか、と。
なぜなら、兄や妹と違って、兄嫁さんにとって後藤さんはそれほど関係のない人。先の話でいえば、8カ月前に義弟となった人なわけです。
付き合いもなかったから、兄嫁さんが後藤さんに兄弟愛のような愛情を抱いていたわけではない。
反統一教会のために、行きがかり上、後藤さんを監禁することになった。 監禁から1年もしてまだ後藤さんの脱会の意思がないことがわかった段階で、夫にもうやめよう、義弟のことにはもう関わるのはよして、自分たちの家庭を築いていこうと思ったとしても、当然のことです。
それなのに、夫に引きずられてずるずると12年間。お兄さんは、心酔していた宮村の呪縛から抜け出ることができず、自分の家庭づくりよりも弟の脱会のほうを優先した。兄嫁さんはヒステリ状態になったと思いますが・・・。
後藤 陳述書にも兄嫁から受けた数々の仕打ちを書きましたが、確かに兄嫁は恐ろしかった。兄嫁が近くに居るだけで動悸が激しくなるほどでしたから。
ヒステリックになると何をされるか分からない恐ろしさがあった。
監禁が長引くと「このマンションを維持するのにいくらかかってると思ってるの!」と非難されました。そんな非難するくらいならこんなこと止めてすぐに引き払えばいいでしょ、とこちらは言いましたが、全く聞いてもらえませんでした。
後藤 兄嫁がヒステリーになると、もう手がつけられない。声は金きり声。目はフォックスアイ。正直、怖かった。
例えば、こんなこともありました。私が座っていると、兄嫁が中に氷と水が入ったボウルを持ってものすごい形相で現れて、私の後ろ襟首をガバッと引っ張り、「いい加減目を覚ましなさいよ!」と背中に氷水を流し込む。兄嫁の陳述書にも書いてありますが、兄嫁にとっては私が何をやっても不真面目な態度をとっているとしか見えなかったようです。
<感想>
兄嫁さん12年以上も監禁に関わるとは思ってもいなかったのでしょう。
それに、まともな感覚なら’いち抜けた’と関わるのをやめて良い立場です。
なにせ、肉親じゃないのですから。
それなのに、12年以上も、、、。
教会に対するうらみつらみを逃げ場のない後藤さんにぶつけたのか?
それにしても、凄まじい。
体格の差などは関係ない、きれた人間というのは本当に、マジ怖い。
弁のたつ、きれた女性に言い返しでもしたら、まちがいなく、3倍、いや10倍返しだ。
声は金きり声。目はフォックスアイ。背中にガバッと氷水を流し込む。
当然、逃げるが勝ちなんだけど、監禁されているから逃げられない。涙
米本 そして、食事制裁に。
後藤 私が30日間のハンストをやった後、家族は70日間に亘ってポカリスエットと少量の重湯だけしか出しませんでした。
その時の苦しみはもう表現できないほどです。
いよいよ餓死の恐怖が迫り、たまらず家族に見つからないようにそっと残飯や生米を食べました。切羽詰まった末、家族に食事を戻すよう頼み込みました。
兄は、さすがにこのまま死なれたらまずいと思ったのか、「もうそろそろ食事を元に戻してもいいのではないか」 しかし、これを聞いた兄嫁は、いかにも残念そうに憮然とした表情で、「えー,信じられない!」この人は、本気で私を殺すつもりなのかと心底恐怖を抱きました。
一審判決では、治療費の全額が認められた。
米本 空恐ろしくなるような話です。
後藤 30日間のハンストをやった後、結局解放されるまでの約2年間まともな食事を食べさせない仕打ちを受けました。
栄養失調状態が続き食物のことが頭から離れない。その時の家族の雰囲気はもう空気が凍り付いているような感じでした。
元々悪い仲ではなかった兄と妹もここまでするかと。彼らの顔から一切の感情が消え、能面のような表情で私を見る目には憎悪が見て取れました。
いつまでも頑として信仰を棄てようとしない私に対し「自分たちの人生計画が狂ってしまったのはおまえのせいだ」、と目が訴えていました。家族がここまでするようになってしまったのは、もちろん松永牧師や宮村から指導され感化されたことが大きい。「マインドコントロールされ、別の徹になってしまっている」と思い込んでいたのです。
<感想>
兄嫁の鬼嫁ぶりに拍車がかかり凄すぎます。
この頃の後藤さんは餓死の恐怖と戦い、あまりに辛すぎて眠りにつく際、このまま天に召して欲しいと祈ったこともあると聞いた記憶がある。
そこまで追い込まれている中で、食事制限を解いてもらう切羽詰まったお願い。
それを無下に拒否する。
脱会をしない後藤さんへの制裁以外の目的はあるまい。
米本 お兄さんたち3人は、後藤さんがマインドコントロールされていたと心から思っていたのでしょうか。そして、そのマインドコントロールを解くのに必死だったのでしょうか。
後藤 ええ、そうだと思いますよ。
自分たちは統一教会からマインドコントロールされて入信し、活動させられていたのだ、と思い込んでいる。本当は自分で信じて自分の意思で活動していたのですが。とにもかくにも、マインドコントロールの呪縛から解けたのは宮村先生や松永先生のカウンセリングのおかげと思い込んでしまっている。これも本当のところは拉致監禁による強制的な思想矯正なのですが。今でもマインドコントロール論を信奉しているでしょうね。もしそれが間違いだと気付いたら、アイデンティティクライシスになるでしょうね。
後藤 兄たちが心底、マインドコントロール論を信じきっていたのは、偽装脱会をした時、真っ先に西田公昭著『マインド・コントロールとは何か』やスティーブン・ハッサン著『マインドコントロールの恐怖』などの本を監禁現場に持ち込み、私に読ませた事実からも分かります。まあ、宮村や松永牧師に指示されて読ませたのでしょうね。
「おまえはこのようにマインドコントロールされていたんだよ」 と言いたいわけです。
何よりも兄が心酔していた宮村がバリバリのマインドコントロール信者です。
それは、宮村の共著『親は何を知るべきか』を読めばよく分かります。
類は友を呼ぶで兄たちの元信者仲間も、みんなマインドコントロール論を信じていたと思います。統一教会に入信したのを自分の責任では無く統一教会に責任転嫁するのにこれほど都合のいい理論は無いので元信者の皆さんの心にすっと入っていったのでしょうね。
彼らの仲間内ではマインドコントロール論に懐疑的になる環境はなかったと思っています。
ちなみに2冊とも私物。念のため、私は現役信者です。
<感想>
私はマインドコントロールは擬似科学だと確信しているが、もし、マインドコントロールがあるとすれば、後藤さんの家族の方がより強い「反統一教会のマインドコントロールの支配下」にあると思う。
大学教授や牧師の肩書きによる”権威性”により信じ込んでいるのか。
宮村氏に対する”恐怖”か。
宮村氏のやり方は恐怖政治的手法。拉致監禁から開放させる時期も家族に決めさせず、説得者(ディプログラマー)に決定権があるような絶対服従を強いている。
脱会させるためには何でもあり、しかも罪悪感はほとんどない。
「愛国無罪」という言葉があるが、まさに彼らのやっていることは「反統一無罪」だ。
せっかく?脱会したというのに崇拝対象が宮村にかわっただけ、人間性は凶悪になったようにさえみえる。
米本 インタビューの最後は寒々とした話になりますが、お母さんの病気、そしてその後亡くなられたことについてです。
まず、お母さんが重篤になられたときのことから、説明してください。
後藤 2012年5月頃のことです。福本先生(後藤さんの代理人)から電話がありました。「お母さんが病気で大変らしい。さっき、相手側弁護士から連絡が入った。見舞いに行ってあげたらいい」と。
病院名と住所が記されたFAXが送られてきた。数日後、病院に行き、主治医に説明を求めました。「脳が萎縮している。その上、大腸がんが併発している。意思疎通は難しい状態だ」。この先、長く生きられる可能性は少ないといった説明でした。
看護師に連れられ、母の病室に入るとベットに横になっている母の変わりように驚きショックを受けました。
後藤 痴呆については、2009年の11月頃の妹からの手紙に結婚の知らせと一緒に「お母さんの痴呆が進んでいます」と書いてあったので、理解していました。そのため、民事提訴の被告から外しました。
しかし、監禁解放後の2008年の7月頃に実家を訪ねたときには、母はそれなりに元気そうだった。そんなわけで、母のあまりの変わり様を見て、心底、驚きました。
米本 寒々しい話はまだありますね。
後藤 一人で見舞ったあと、日を改めて赤ちゃんと奥さんと3人で見舞いに行きました。母に何としてでも、嫁と孫の顔を見せたかったからです。母が認知できるかどうかということよりも、ともかく、母に見せたかった・・・。
宮村や松永の指導があったとはいえ監禁し続けた母に対して許しがたい気持ちは今もあります。しかし、それはそれとして、やはり母が生きている時に孫の顔を見せたかった。母にとって初孫でしたからね。
米本 そのとき、妹さんに会われたと聞いていますが・・・。
後藤 ええ、待合室に妹がいました。挨拶はしましたが固い表情で、妻と子供を紹介する雰囲気ではなかった。
米本 それから、お母さんが亡くなられた。
後藤 はい。2012年の9月20日に母が亡くなったことも、やはり、相手側弁護士から福本先生のところにFAXで連絡があって、初めて知りました。
それで、急遽、FAXに記された住所を頼りに、電車を乗り継ぎ遺体安置所に行き、母の亡骸と対面しました。
翌日、また相手側弁護士からのFAXで「喪主側としては徹氏に葬儀への参列をしてほしくない」という伝言が。監禁中亡くなった父の葬儀にも参加することができなかったので、(うめくように)結局両親の葬儀に参加できませんでした。
<感想>
米本さんがいうように寒々とした話。
しかも、係争中だから見舞いに行っただけでも、それほど家族に対して確執はなく良好な関係なのだとやられたりすることもある。実にやっかいだ。
村八分どころか村十分。
家族と統一教会を天秤にかけ、統一教会を取りやがった!としか思えないのだろう。
私事だが、弟から結婚の知らせは来なかった。私も出していない。
そもそも、どこに住んでいるのか知らないから出しようもないのだが、、、。
母はこう言った。「(弟の居場所を)教える必要がない。」
父と母は別居。(別居して20数年、いい加減離婚したのか?)
誰が亡くなっても連絡こないのは確実じゃないかな。
寒々どころか、読者が凍えるのでこの辺でやめとこ。
にほんブログ村アイコンのクリックも
お願いします。ペコリ
後藤さんのインタビューの続き。
監禁されていた期間とは一変した生活。狭い監禁部屋の中だけの生活から、精力的に何度も海外に行く生活。私生活でも新しい家族を得ていく、、、。
米本 話題を変えます。12年間の単調な風景、暮らしとは言えないような暮らしから、監禁解放後は目まぐるしく風景が変わったと思います。とくに、海外に何度も出かけられたことです。これまで、何回、海外に。
後藤さんにはじめて会ったのはもう何年前のことだったかなぁ。
記憶が間違っていなければ2009年の8月だっただろうか。
印象に残ったのは、監禁中の心理描写を吹雪の中のホワイトアウトのような感じで描写していたこと。私流に言うと暗い深海に引きずり込まれた感じ、イメージ。
閉ざされていて、視界が最悪、極限に息苦しい。そんな感覚。
実感できる人は何人いるだろうかと思いながら聞いた覚えがある。
インタビューは
後藤インタビュー(上)-10年間毎日聞いた♪夕焼け小焼け♪から引用。
米本: 勝訴判決、おめでとうございました。良かったですね。
後藤: ありがとうございます。
米本: 以前、監禁の12年間より監禁から解放されてからの今日までの5年間のほうが長かった、と話されていたことがとても印象的でした。
後藤: いやぁ、12年間も長かったですよ。長さの質が違いますね。
米本: どういう風に?
後藤: 10年間以上、目に入るのは同じ壁と同じ天井、部屋にいる人も同じ。毎日夕方になると、どこからともなく 「夕焼け小焼け」が流れてくるのです。それを物憂げな気分で聞きながら、何もできない辛さ・・・怒りと絶望感、徒労感に襲われるのです。毎日、毎日。いま振り返ってみても、有意義に過ごした感覚がまるでないのです。
米本: 刑務所の囚人と同じ?
後藤: (語気を強めて)刑務所の人たちには刑期があるじゃないですか!刑期が終われば外に出られるという希望がある。しかし、私の場合、刑期がない。いつ終わるとも分からない。私はこのまま6畳一間の畳の上で死ぬのかと思っていました。社会から隔絶されている自分。その悔しさ、不安・・・。外の社会はどんどん変化し進歩している。そこから自分だけが取り残されていく。絶望的な思いで一杯でした。
後藤: ただ私の場合、信仰を持っていたので何とか精神が破綻せずに済みました。 あの状況で信仰がなければ、発狂するか、自殺するか、あるいは家族に暴力をふるっていたでしょうね。 「今生では結婚もできない、家庭も持てない。たとえ寂しい人生で死んでも、神だけはこの苦しみを知っていて下さっている。」そう思っていました。
イメージ マンションと夕暮れ
イメージ 鳥の群れ次はどこにとまるかな
<感想>
私が監禁されていたのは7ヶ月、後藤さんの12年5ヶ月からみれば短い。
夕焼け小焼け。私の場合、朝、夕に小さな鳥の群れが、向かいの大型マンションをあちらこちらと飛び移るのを次はどこに移るのか予想しながら眺めるのが限られた空間の中での楽しみだった。鳥達がどこともなく消えていくと一日も終わり、今日も出ることはできなかったと思った。
囚人と同じ?監禁のつらいところは何時まで続くかわからないところだ。
刑務所は刑期がある。無期だって相場がある(12~13年)いつまで続くかわからないというのは本当につらい。
私の場合は、信仰があったからというより、理不尽な仕打ちに屈したくなかった。
やつらのやり方に屈する自分。そんな自分自身は許せない。後悔する。それだけは嫌だった。
米本 それが解放されてからは?
後藤 これは、もう解放された自由の喜びにつきます。
行きたいところに行ける喜び。会いたい人に会える喜び。食べたいものを食べることができる喜び。情報を得たいと思えば、それを自由に手に入れる喜び。選挙があれば、自由に投票することができる喜び。心の底から自由の喜びをかみしめました。本当に嬉しかった。
この喜びの大きさは、自由が当たり前の世の中ではなかなか理解してもらうのが難しいと思います。
先の話に戻りますが、服役囚の場合、罪を犯して裁判所でキチッと裁かれ刑務所生活を送るわけです。拘束下から外に出ることができた喜びは私と同じかもしれませんが、彼らは罪を犯し裁判所で有罪判決を受けて刑務所に入っていたので自業自得と言えます。それに対して、私は統一教会に入信していただけです。だから、服役囚が監獄から解放されるのと喜びの質が違うと思うのです。
後藤 荻窪のマンションから追放される形で解放されたとき、思わず、自分が居たマンションを見上げましたよ。解放直後は食事制裁による栄養失調と長年の運動不足で体は衰弱していましたし、これからどうしたらいいか不安はありましたが、一方でその時の解放感と喜びは言葉では表現できないほどです。
外に出て、一歩踏み出したときにまず新鮮に思ったのは「知らない人が歩いている!」ということでした。
米本 どういう意味ですか。
後藤 私に対して敵意を持っていない人が普通に(路上を)歩いているという感覚です。
12年間、私の周りにいた人たちは特殊なごく限られた人たちでした。すなわち宮村や家族や元信者たちは、私の信仰に強烈に敵対する人達でした。10年以上監禁して説得しても頑として統一教会の信仰をいつまでも捨てようとしない。そんな私が憎たらしくてしょうがない。それが、彼らの言葉や態度にいつも表れる。
ですから、私にとっては彼らの存在自体がものすごいストレスでした。
それが外に出ると、私に悪い感情を持っていない知らない人が普通に通りを歩いている。こんなこと至極当たり前なんですがね。この感覚は、お分かりにならないと思いますが、実に新鮮でしたよ。
それから、監禁場所をメモするためにマンションのエントランスの段ボールの中にあったチラシを引っ張り出して、その裏紙に住所を石でこすって書き留めました。
米本 解放されてから、後藤さんは統一教会がある本部、渋谷の松濤を目指して歩くわけですが・・・。
後藤 このときは、とにもかくにも、腹が減っていた。約2年間まともな食事を取らせてもらえず飢餓状態でした。青梅街道を歩いていて、まず飲食店から漏れてくる匂いがたまりませんでしたねえ。
ラーメンの匂い、ドーナツの甘い匂い、焼き肉の匂い。
ショーウィンドーの見本料理に目が釘付けになりましたねえ。
しかし、一文無しで追い出されたのでどうしようもなかった。
後藤さんが目が釘付けになったのはこんな見本だろうか
<感想>
監視されることなく、外に出られる、たかだかこれだけのことが長期間叶わない。
違法行為とは関係なく、統一教会の信仰をもつこと自体が気に入らない。
そんな連中に囲まれ、過ごさざる得ない凄まじいストレスを感じる。
身体的にも激痩せするものもいれば、反対に激太りするものもいる。
ストレスの元凶がなくなり、新鮮な気持ちなったのもわかる。
チラシに石でこすって監禁マンションの住所を書き留めた後藤さん。
書くものがなかったから、私の場合は住所を暗記した。
後藤 あっそうそう。腹が減っていたと言えば、こんなこともありました。フラワーホームで食事制裁を受けていた時、飢餓と徒労感に苛まされながらも、唯一の慰めが夜寝るときの「日替わり丼」でした。今日は中華丼、明日は海鮮丼。
米本 ??
後藤 (ちょっと恥じらんだように)実は、その頃、毎晩、どんぶりに入った美味そうな丼物を食べることを夢想しながら眠りについていました。とにかく腹が減ってなかなか寝付けない。そこで、「もし、丼物を日替わりで食べるとするとご飯に何を乗せるか?」と自問自答し、ズーと想像を巡らせる。
連日の夢想の結果、定着した日替わり丼の一週間のメニューは牛丼、カツ丼、中華丼、親子丼、海鮮丼、麻婆丼、カレー丼の7種類でした。
その夢想は、かなりリアルで例えば海鮮丼の場合、イクラ、エビなど乗せる魚介類一つ一つを具体的に思い描き想像しましたよ。なぜ、丼物だったのか自分でもよく分かりませんが、多分、一番手軽にかき込むように食べられて種類が多いから想像しがいがあったのかもしれませんね。
後藤 だから、渋谷の松濤本部にたどり着いたとき、守衛の方がカツカレーを買ってきてくれたことが、ものすごくうれしかった。
肉も約2年間食べられなかったですからね。カレーのいい匂いが目の前から漂ってくる。それを冷たい目で見られることもなくおもいっきり食べられる。もう、うれしいのなんの・・・。
監禁下での食事制裁中、最もきつかったメニューはカレーでした。家族は同じテーブルでカレーをよく食べていたのですが、飢餓状態の時、特にカレーの匂いは強烈でした。食事の後もしばらく部屋にカレーの匂いが残るんですね。それが、またたまらない。
さらに、家族はいつもカレーのルーを残して翌日のお昼にカレーうどんにして食べる。もう、喉から手が出るほど食べたかった。
そんなわけで、解放後なんとか本部にたどり着き、いつも食べたいと思っていたカツカレーがパッと目の前に出されたとき、瞬時に神の計らいを確信し、深く感動しました。無宗教の米本さんには理解できないでしょうが(笑)。
夢にまでみたカツ丼と後藤さん
<感想>
寝ている時だけが、監禁されていることから解放される唯一の時間。でも、腹がすきすぎて寝れない。食事制裁は拷問と云っていいと思う。
後藤さんには申し分けないと思うことがある。
監禁中、私が断食をしなかったことではない。
はじめて、後藤さんの話を聞いた時のこと、12年5ヶ月の全容を理解できていなかった私は、
(基本的に体力を奪うので監禁中の断食はしないのに)何故、断食をしたのか?と詰問した。
後藤さんは「いや~、まぁ~」と苦笑い。
でも、その後、8年間は「断食」などしていない事実。断食に至るまでの長き時間のことを考え、他に打つ手がなくなりはじめたということがわかり、 なんともひどい質問をしたものだと反省した。
米本 話を戻しますが、監禁の12年間と自由になった5年間のことです。
後藤 監禁からの解放後、自由を享受する喜びはありましたが、一方で長い間社会から隔絶されていたため、いろいろ苦労がありました。 何しろ、住むアパートはないし、仕事もない。履歴書もまともに書けない。 監禁から解放されてから牛乳宅配の仕事が見つかりましたが、仕事上、車の運転が不可欠だった。ところが、運転免許証がない。監禁中、免許証が失効していましたから。これには、ほとほと困りました。そこで、改めて免許を取らなければならないけど、一から教習所に通うお金がない。そこで、一発試験で取ることにして、比較的お安いそのための講習に通いました。12年間のブランクはともかく大きかったです。皆が手にしている携帯電話に驚きました。パソコンは旧型のものをリサイクルショップで2000円で買って使い方を覚えたり。布団や鍋釜などの生活必需品の多くは教会員仲間から譲ってもらいました。これは、本当にありがたかったですね。
<感想>
たいした話ではないが、12年余りの監禁生活を経て、携帯電話に驚いたという後藤さんの話を聞いていた。
私が監禁されたのも1995年8月~、後藤さんの12年の監禁生活が始まる1ヶ月前、当時は携帯電話はそれほど普及していなかった。
私も当時持っていたのはポケベルだった。
そんな後藤さんから絵文字入りのメールがきた時にはたいそう驚いた。
それにしても、12年のブランクを経て、一から生活いや人生設計を立て直す、大変な作業だ。
拉致監禁は、ただ信仰を脅かすだけではない。職業、将来の伴侶を奪い、時として新しく築いた家族をも引き裂く。
米本 12年間よりこの5年間が長かったというのは、上から目線で申し訳ないけど、後藤さんが成長したからではないでしょうか。子どもの頃は時間が経つのが長く感じられるけど、大人になるとあっと言う間に1日が過ぎていく。それは、子どもの頃は様々な刺激を受け、成長するがゆえのことではないかと思っています。ぼく個人のことになるけど、大腸がんになっていろんなことを学びました。入院期間は5週間。退院してから12週間(インタビュー当時)になりますが、入院中のほうがものすごく長く感じられた。
後藤 (眉間に皺を寄せ、沈んだ調子で)確かにこの5年間での経験で、私の認識は大きく変わりました。特に人に対する見方が変わったと感じます。
例えば、こんなことがありました。監禁解放後の入院中、かつての信仰仲間が見舞いに来て下さって本当に嬉しかったのですが、その中に一人の女性がいました。
久しぶりに会った彼女と少し話をしてみると、私が監禁される前に知っていた彼女とはだいぶ違っていました。彼女は統一教会の信仰から少し離れているような状態でした。
彼女の変貌に私はとてもショックを受け、正直、怒りを覚えました。言葉には出して言いませんでしたが、「いったいどうしたっていうんだ!俺は監禁されながらも自分の信仰を貫くため12年間も忍耐してきたっていうのに!」 といった思いが湧いてきました。
自分が死線を彷徨いながらも苦労して信仰を全うしたとの強烈な思いが、変貌した彼女への怒りとなったのです。
私は、わざわざお見舞いに来てくれた彼女に厳しい言葉をまくし立て、連日、彼女のためによかれと思い覚えたてのメールで一方的に文先生のみ言葉の一節を送りました。そんな私の言動に彼女が反発したのは当然の成り行きでした。彼女とはそれっきりになってしまいましたが、あの時の私は異常でしたね。「信仰傲慢」だったのです。今となっては深く恥じています。 今では、人に対して多角的に見ることができるようになったと思います。
米本 そうなった契機は。
後藤 宿谷麻子さんの存在は大きかったですね。宿谷さんに関しては米本さんの本『我等の不快な隣人』によって初めて知ったのですが、ものすごく衝撃的でしたね。統一教会を拉致監禁によって辞めた元信者で、その後、統一教会にも拉致監禁グループにも批判的になった方です。
「拉致監禁をなくす会」の役員会などで交流を持ち、私の裁判を支援する裁判ブログの世話人にもなって頂きましたが、こういう人もいるのかと思いましたね。koyomiさん(裁判ブログの世話人)もそうです。
このような交流がきっかけとなって、人に対する見方が変わり視野が広がっていったと思います。
在りし日の宿谷麻子さん
<感想>
私にとっても、宿谷さんの存在は小さくない。生前お会いすること叶わなかったが、『我等の不快な隣人』を通して知った。拉致監禁がこれほどまでのPTSDを引きこす原因になり得るのかと驚愕すらした。
そして、著者の米本さんをはじめ、オーストラリアのYOSHIさん、後藤裁判を支援する裁判ブログの世話人のKoyomiさん、小川さん、、、、。立場の異なる人達との交流(ネット上も含め)は視野を広げてくれる。
米本 どんな風に?
後藤 拉致監禁の被害といっても単純一様ではなく、その被害者個々人やその状況によって千差万別であるということです。
例えば、拉致監禁の2次被害というものもあります。統一教会から脱会させるために信者を監禁するのが1次被害。そして、拉致監禁から逃げ帰ってきた信者が、同じ信者仲間から冷たくされ傷つけられたという事例が2次被害です。
それだけでなく、3次被害ということもある。
これは、拉致監禁の被害者が自分の体験談を話すなどの拉致監禁を撲滅するための様々な活動を行うときに封印してきた拉致監禁体験が蘇り、PTSDが発症してしまうという事例です。だから、拉致監禁の被害者と対面するときには、細心の注意を払うように心がけています。
米本 確かに、2次被害は多いです。火の粉ブログのコメント欄に投稿されている黒い羊さん、秀さんもそうです。拉致監禁から逃げ帰ってきた人で、教会が温かく迎え入れたケースのほうがむしろ少数だったでしょうね。
3次被害もそう。拉致監禁体験者である埼玉の女性教会員は、上から拉致監禁反対のデモと集会に参加しろと言われて、嫌で嫌でしかたがなかった。それでどうしたらいいかと相談を受けたことがあります。
また、韓国の女性教会員は集会に参加することを強要され、それがもとでかなりひどいPTSDになってしまった。
<感想>
2次被害について:私の名前も出ているので少しだけ概要を話すと、監禁から出てきてから、反対派のスパイと影で言っている奴いるというのを、大学在学中に学生部長だった人物にあった際に聞いた。誰とまでは言わなかったが「秀さんがスパイだって言っている人がいるよ。」と。アホくさだが、教会批判(霊感商法やら)も平気でしていたので、煙たがれたのだろう。
最近、この話をしたところ、アメリカの拉致監禁被害者の一人からはこう言われた。
「(笑)本当にスパイなら、秀さんみたいに(教会批判やら)なんか言いませんよッ!静かに言うことを聞くふりをして、、、密かに情報を流す。それがスパイでしょ。」
しかし、やっとの思いで戻ってきても、いろいろ警戒されたりなのだ。(フ~ッ。)
にほんブログ村アイコンのクリックも
お願いします。ペコリ