在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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個々のエピソードはよく覚えています。
7つの鍵を付けられるシーンは一昨年夢で見ました。悪夢です。
それ以来、拉致監禁関連の夢はみていませんが、、、。
監禁の開始
拉致されたのが8月〇日のことです。マンションに入れられたが翌日未明のこと。
8月25日に祝福(合同結婚式)が迫っていたので私は大変焦りました。気持ちは当然参加でした。
「どうして参加するのか。」から話は始まりました。
「統一教会に出会い。教理を知り、考え、それを受け入れたので参加するのだ。」と時間をかけ話しました。
しかし、母が「そんなのでは納得できない。」と声を荒げました。
どのように説明しても「納得できない。納得できない。」の繰り返しです。
目的は、強制棄教であり、如何なる説明に対しても納得などする気がない。というのが本音でしょう。
これは拉致監禁以外の何ものでもなく、卑怯な行為だと何度も何度も抗議しました。
入室と同時にチェーンと南京錠の拉致監禁ではおなじみの”施錠”がされていました。
おなじみチェーン+南京錠
また、マンションは7階か8階の部屋でしたから、もし飛び降りれば即死です。
鍵は、母が首からかけ衣服の中に入れています。
ドアの方に行くだけで弟か叔父が立ち塞がる状況でした。
チェーンと南京錠の拉致監禁ではおなじみの施錠を示しての抗議に対し、答えは「これは保護であり監禁などしていないしする気もない。」だった。
「私は禁治産者でも準禁治産でもなく、成人した一人の人間だ、保護などされる謂れはない。」と反論しました。
しかし、「統一教会からの影響が及ばないところで誰にも邪魔されず話す為の保護だ。」と返してきました。
しかも、母はこの言葉は誰から言われたのではなく、自分で考えた言葉だと言いました。
私は背後に反対派の牧師がいることを確信しました。しかし、事態全く埒があかず、ただ時が過ぎていきました。
あなたが信じているのは「原理講論とかいうこの本に書いてあるのでしょう。」
「氏族のメシアというなら、説明する義務があるじゃないの。」と私が話していないこと(氏族メシアという言葉など)までよく知っていました。
反対牧師らによって、徹底的に教育を施されているのがよく理解できました。
それから、原理講論について、いちいち記述されている事柄の言葉について挙げ足取りをしてきました。
その酷さは原理講論の最初の三行にまる三日費やしたほど。
原理講論、聖書は用意周到人数分用意されていた。
この監禁が用意周到に準備されていた証左の一つでしょう。
それでも、祝福に参加したいという強い意志で耐え忍びました。
でも、一週間も続けると心身共に疲労困憊になり、話も堂々巡りになり手詰まりになって来ました。
その前から、「詳しい牧師さんがいるから来てもらいましょう。」とは言われていましたが、「家族の話し合いというなら他人である牧師がくるのはおかしい。」拒否しました。
後に統一教会での教化の過程をロールプレーイングゲームに例え散々揶揄されました。
しかし、次は「牧師様の登場」が絶対予定かのように母は必死で牧師を呼ぶことの同意を求めてきました。
あくまで、本人の要請で来たという体裁を整えるのに絶対不可欠なのでしょう。
後の裁判対策の為の対策と思いました。
そのための芝居にしか見えませんでした。
私は牧師登場自体、ロールプレーイングゲームような”不可避な予定されているイベント”であり、現在の自分に拒否権はないことを実感して、”同意以外進展がない状況”を受け入れるより道はありませんでした。
ロールプレーイングゲームでは登場人物に話しかけても特定の言葉
しか話さない。
ゲームクリアのために”不可避なイベント”も発生する。
牧師は日本基督教団の大西という牧師だった。
大西は小柄で力で相手をどうこうできるタイプではなく、もし、相手が暴力を振るうならば、全力で返り討ちにしてやろうと思っていたので少々拍子抜けした。
大西の最初の話は、「旧約聖書」は御伽噺と同じ「単なるお話」なんです。という話だった。
「新約聖書」は史実ととらえているらしい。
大西の手法は、大抵何かお題を出して自分が退出した後、話し合ってくださいというものだった。
いわゆる反対派の本も十三冊持ち込まれてた。
13冊の内、5冊は現在所有している。
大西にも拉致監禁については何度も自力で開錠できない鍵の存在を明示し抗議したが、返答は母の答えと全く同じ、当然受け入れられることはなかった。
反対派の本は、監禁部屋であるマンションの中が恐ろしく何もすることがなく退屈なのもあり、7ヶ月の監禁生活の間に結局全部すべて読んだ。
特に当時は、「六マリアの悲劇」が決め手だったのであろう。
「読みしないのは卑怯だ。読みもしないで何がわかるか!」
「監禁しておいて何が卑怯か。そっちこそ卑怯だ!」と激しく応酬した。
この「六マリアの悲劇」つまりは「血分け」があったか、なかったかの問題は「私は裏切り者」の存在を知っていたこと、言行がフラフラ変わる著者の朴正華氏より、そのような事実はなかったとする「金元ピル先生の言葉を私は信じる。」と言い切った。大西は自分で見たわけでもなく、具体的な証拠を示せるわけではないのにも関わらず、最後まで事実あったことに固執していた。
それ以上議論しても、どうせ大西の考えが変わるわけでもないので、自分の考えだけを言い切ったところで止め、固執する大西には苦笑するしかなかった。
「六マリアの悲劇」と「私は裏切り者」
これは監禁も終盤になってからの話、前半は実にやられっ放しだった。
大西が出張に行くことになったらしく、代わりに来たのが川本、同じく日本基督教団の牧師だ。
手法は大西とあまり変わらない。
この2人当時は名(迷)コンビだったようだ。当時、札幌市内で4人監禁されていたせいか、つねに倦怠感を漂わせており、また、すでに脱会した元信者から依存されていることで悩んでいた。
これは、「札幌には、僕と同じ環境にいる人は何人いるのか?」と尋ね、牧師が答えたので知った。
「だったらこんな犯罪まがいのことさっさと止めたらどうか。」と言った記憶がある。
「いや、、、しかし、、、やめるわけには、、、、。」 川本の答えは歯切れが悪かった。
川本には子供がいなかった。夫婦二人だけの家族らしい。
それで特に”四位基台”や”真の家庭”という言葉を嫌悪し激しく批判した。
神、父母、子で完成する統一教会の家族感を認めることは子どものいない自らの家庭を否定されているかの如く感じるのであろう。
彼の主張は、母子家庭や父子家庭を家庭ではないかの如く扱う統一教会の家族感(けしてそうではないが)は間違いだと言うわけだ。
わからなくはないが、無理やり問題を親子問題にすり替えようとしているのがミエミエで気持ち悪いくらいだった。
監禁されているとやはり心、気持ちの起伏が激しく変動する。
まるで鬱の状態が定期的にくるような感じだ。
第一波は監禁開始から二週間後にきた。かつ監禁期間を通して一番キツイものだった。これは監禁中引きずることになるが、待ち望んでいた祝福を諦めざる得ないことが決定的になったからというのも理由だと思う。
92年にも機会はあった。でも、その時は受ける気がなくそれから3年かけ、考え、準備した結果だった。
それを失った時の衝撃、喪失感は言葉にできない。
加えて、この監禁により職も失った。
一層、暗澹たる気持ちになった。
マッチング相手に祝福には行けない旨の手紙を書きたいと願ったが、「勝手に書けば。」
「でも、教会にも相手にも届けたりはしないから。」と無碍な態度を取られた。
そのような中、執拗な教会批判が続いた。
いつまで続くかわからず無期限で保護という名で行われる監禁の日々。正直、脱会して早く楽になりたいと思った。
その後、常識的なことも通じなくなるのを感じ、昼間寝て夜起きるようになった。皆がそれに合わせてきたらその逆を繰り返した。
自分の考えは、マインドコントロールされているとまともに聞き入れられることはなかった。力も弟と叔父の二人がかりであれば逃げようがなかったし、強固な逃亡防止の施錠が脱出を阻んだ。
教会と関係のない常識すら通じなくなった。
その中での能動的にできる精一杯の抵抗であり、抗議だった。
断食はしないこと。
これは教会の対策講義でも言われることであったが、体力を奪い、いざという時に動けなくなるので私はしないことを決めていた。それで夜起きている時は勝手に調理して食べていた。
このにおいで眠りを妨げることになり、家族、親族はだいぶん弱っていた。
無駄だとも思ったが、暴れもした。
食器、ガラス、引き戸壊せるものはなんでも壊した。
マンションにはスチールの外のドアと内側に普通の?ドアがあった。
しかし、この普通のドアは普通ではなかった。
ドアノブが外側と内側逆に付けてあり、中からは鍵で開けないと開かず、外のドアまで行けないよう改造されていた。
鍵は常に母が首から下げ衣服の中に持っている。
奪うことも当然考えた。
絶対に渡すまいとする力はとても非力な女性のものではなく、いわゆる火事場のクソ力であろう。非常に強いものだった。
とても、力を加減してといういうわけにはいかない。
それは、もし、決行するとすれば母の命は顧みないでということを意味する。
ドア自体も厚手の合板で作成した頑丈な特注後付けのものだった。
夜中、皆が寝が深くなった頃、このドアを蹴り壊し、最後は拳、肘で穴を広げ、開けた。拳と肘は血まみれになった。
しかし、外のドアは幾たびも助走を付け全力で体当たりしてもチェーンが切れることはなかった。
騒いでたとえ警察が来てもこの問題は取り扱わないから無駄だと言われていた。
それでも騒いで助けを求めたが助けは誰も来なかった。
大きな音で起きてきた家族に取り押さえられた。
その後、チェーンが切れることを恐れた母は外のドアに計7つの鍵を付けた。
もはや、マンションは強固な要塞化し自力脱出は事実上不可能となった。
希望が全く見えず、光のない深海深く漂っている感じだった、、、。
つづく
図解 監禁マンション
札幌市北区にあるこのマンションが監禁の舞台
現在、マンション名は当時と変わっている。
当時、少なくともこの一室が常時監禁部屋とし
て使用されていた。
比較的当時の監禁マンションに近い部屋
3LDKのマンション。実際は浴室とトイレの位置が違った浴室は玄関側、
トイレがキッチン裏にあった。窓はない。そのため、内側のドアは図よ
り玄関よりだったと記憶する。
少なくとも和室6帖の外にはバルコニーはなかった。内側のドアを破壊し
てはじめて入った洋室6帖の部屋には、いつ監禁がおきても対応できるよ
うにということだろう食器類やトースター、電子レンジ等の生活用品。
歴代の監禁家族がおいていったもののようだ。
7つの鍵は玄関から外にでるドアに取り付けられた。
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保護という名でオブラートに包んでいるが、拉致監禁するためには だまし討ちでもなんでもあり。取り押さえて、言いくるめて閉じ込めてしまえばOKなのだ。
「場所を変えて話をしよう。」や「どこに行くのか。」の問いに対して「着けば分かる。」というのは、もはや定番。お約束。
全国津々浦々で「拉致監禁」は行われてきた。
親達は、自分たちで考えてと言うのだが、受け答えが完全にそっくりそのものだ。
そうして、写真を頂いたのでいよいよ8月25日の式典に参加することを伝えました。
すると大切なことだからもう一度しっかり説明してほしいので祖父母の家に来て欲しいと言われました。
ずっと監禁されることを警戒していたのですが、表面上は激しい反対もなかったため、大丈夫だと思い車を走らせ祖父母の家に行きました。
数時間は何事もなく近況を話したり、夕食まで時間もあったので洗車をしていました。
なぜか、弟がわざわざ洗車について来たのが不自然ではありましたが、その時はあまり気にしませんでした。
平穏な時を過ごし、自分が考えていた拉致監禁への懸念は杞憂に過ぎないものに感じていました。
(統一教会の)話をしようという時、母の二人の弟つまり私の叔父が来ました。二人ともC市に住んでいます。話を聞きたいというのもわからなくもありません。
何より自分の家族、親族にかぎって、まさか拉致監禁をするはずがないと思っていました。
それにここは祖父母の家、騒ぎを起こすはずもない。勝手な思い込みでした。
四時間強程話したところで、事体が急変します。
「夜も遅くなってきたので場所を変えて話をしよう。」と母が提案してきました。
拉致監禁を警戒しつつも、それでも叔父の家でも行くのだろうと思い込んでいた私は信用してOKしてしまいました。
すると弟と下の父が私の脇に寄り添い、叔父の四輪駆動車に乗せられました。
私は二人に挟まれ後部真ん中の座席です。もちろんこれは逃げ道を塞ぐためです。
当然、行き先は叔父の家ではありません。
さすがに「しまったやられた!」と思いましたが後の祭りです。
「どこに行くのか。」聞いても「着けば分かる。」の一点張り。
何度も「降りる、監禁する気だ。」と抗議しましたが聞き入られることはありません。
車はだんだん郊外に入り峠に向かいます。
運転している叔父の首を締めてやろうかとも思いましたが、断崖絶壁に落ち、命を落とすことも覚悟せざる得ません。
まず、生きねばならない。そう考え思いとどまった。
写真は石北峠、カーブの下は断崖絶壁のことも珍しくない。
車内は重苦しい空気が漂い、会話は全く無くなりました。
私は車を降りる時以外逃れるチャンスはないと思いました。しかし、大きな問題がありました当時、弟は大学生でアメフト部の主将、上の叔父は現役ではないものの柔道の有段者です。
さすがに、この二人が相手では分が悪すぎます。
とにかくなんとか振り切るしか道はないそう思いながら、悟られないようじっと待ちました。
峠は暗い夜道ですが、恐らく〇〇峠。行き先は札幌そう思いました。
やはり、行き先は札幌でした。私は大学が札幌でしたが私の土地勘の働かない所に向かっているようで、しかも市内でぐるぐると方向を悟らせない為か回っているようです。
ようやく目的のマンションに着いたようです。車から降ろされると全速で走りました。
叔父2人と母は振り切りました。しかし、その間に弟に回りこまれてしまいました。
私は拳を固く握り「退けろ!」と大声で叫びながら、拳を固めました。
しかし、弟を殴ることに一瞬躊躇したので、一撃を与えるチャンスを失ってしまいました。
弟を振り切れずいたところ、叔父二人にも追いつかれてしまい三人に囲まれ万事休すです。
それから母も合流して、四人がかりで力ずくマンションの入り口まで引きずられ行きました。私は手すりにしがみつき必死で「殺される。助けて!」と大声で叫びました。
しかし、いくら叫べども誰一人来ません。私は何度も何度もこれは拉致監禁だと訴えました。その度、全員が口を揃えて「監禁などしない。」と言いました。
私はこれが最後と思い家族を信じることにしました。
しかし、それがあまりに愚かであったとすぐに思い知らされました。
もっとも彼らには嘘を言ったという意識すらなかったかもしれません。
施錠が強固にされ、自力での脱出ができなかろうが、彼らにとってこれは監禁ではなく、保護なのですから、、、。
阿寒湖:カルデラ湖でマリモが有名。
湖畔には最大級のアイヌコタンがある。
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まりもの歌
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今回は、就職してから、親に教会を明かし、最初のマッチングまで。
転勤族となった私が赴任した最初の赴任地は東北のE市 だった。その土地の方言だけではなく、東北各地の方言で電話がきて大変だった。キツイ方言、イントネーション(特にお年寄り)にとても苦労した。何度聞いてもわからず、恥をかいたことを上げればきりがない。
雪の多さにも参ったが、思っていたよりも市内の町並みはきれいで都会的だった。
E市に来てからも車、フェリー、時に飛行機を使い盆、正月、GWには北海道に帰省しており、親や親戚と疎遠になったわけではなかった。
E市 に来た年は92年、桜田淳子さんらの参加で知られる3万双の国際合同結婚式が8月にあった年だ。
92年の3万双(国際合同結婚式)
私は就職まもなく、また祝福を受けたいとは当時は考えておらず、出会って間もないE市の教会の人に「参加しますか?」と問われ、「いいえ」と答えた。
実際、祝福というものを受けたいという気持ちは薄く、「自分で伴侶を決めないなんて」という思いの方が強かった。
その一方、この教会に所属し続けるなら、決断すべき内容であることも理解していた。
それから、祝福について自問自答する日々であった。
誰かに言われるから受ける、そういうものではないし、そのような決め方をすれば後悔すると思った。
それで、必要な情報を得るためのコミニュケーションはあったがそのことでアベルに指示を仰ぐことはなかったし、その間特に結論を催促されることもなかった。
およそ1年半の後、ちょうど36万双があるという話がでた頃、心は決まっていた。
信仰を持とうと決心した時でもある。
祝福を受けるにあたりアベルから指導が入った。’両親に教会(統一教会員であること)を明かすこと’だった。
隠すつもりはもはやなかったが、92年~95年、年間300~400名もっとも「拉致監禁」による脱会説得が激しく行われていた年代だった。教会を辞める気配等微塵もないのにもかかわらず、けして大きくないこの教会でも何人もの友人、知人が帰省の毎戻ってこなかった。
否が応でも緊張が走った。
教会を明かすため、親には手紙を書いた。内容について、一応、チェックが入り、「情的じゃないね。事務的。」とダメだしをくらった。文才のないのはしかたがない、、、。でも、書き直しはなし。
数日後、夜、電話がかかってきた。電話は5時間強、明け方近くまで、途中弟にもかわり話をした。可能な限り、説明したが、現実を認めたくない親と、もう、どう説明したら良いかわからなくなっていた自分がいた。
95年まで時間はまだあった。継続して話し合うことでその日は、電話を終えた。
しかし、この構図は結局容易には崩れなかったし、崩せなかった。膠着した重苦しい関係が長く続いた。
当時の勤務状態から、簡単に休暇を取るということもできなかったし、説明のため帰省した仲間がそれっきり帰ってこないのも目の当たりにした。それゆえ、気軽に帰れる気持ちではなかった。
勝ち負けではないのだが母は弁がたち、言葉では勝てないという思いは子供の頃からあり、それも大きなプレッシャーであった。
記憶があいまいなのだけれど、それでも、それから一度も帰省をしなかったということはなかった。
母も一度、E市を訪れた。けれど依然として、話し合いに進展らしい進展はなかった。
E市に来て3年、95年春辞令が下り北海道のF市に転勤となった。
実家から車で2時間の距離になった。また、国際合同結婚式まで数ヶ月に迫っていた。
相手の写真を受け取ったのは何時だっただろう。確か、7月の中旬だったような下旬だったような、、、。とにかく韓国の女性だった。
実のところ、写真を受け取る前に義理のお兄さんという方(日本人)から電話をもらった。挨拶程度の会話をしたが、とにかく僕はまだ写真ももらっていないのでと言ってその時は電話を切った。
この頃はもう自分の意思は祝福に参加で決まっていた。
気持ちを説明するのは難しいが、’誰であって受け入れる’的な感覚からこの人なんだという思いに変化しつつある。
そんな感じ。
直接話すことはなかったが、韓国語のできる知人を介して「本人の意思、意向を聞いた。」
つづく
風連湖:砂嘴で根室湾と隔てられている汽水湖。
白鳥の飛来地として知られるが、オオワシ、オジロワシも越冬する。
風連湖のある別海町は人口およそ15600人に対し、乳牛、肉牛あわせて
11万頭を飼育する酪農王国。
ご当地ソング♪
風連湖 世のおばさま注目! なかなかのイケメンが唄ってますよ。
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今回は、大学に入ってから、統一教会に出会い、修練会に参加したりしつつ、卒業して就職することを決めるところまで。
当時、伝道はビデオセンター真っ盛りの時代だから、現在だと正体隠しの伝道ということになる。
ただし、違法となったのは2002年以降と承知しているので、遡及的に違法扱いするのには与しない。
大学での生活と統一教会との出会い。
大学では1年生の時は要領が得ず、成績もあまり芳しくなかった。
しかし、次の年からはうまくやれ、3年終了時には卒業に必要な単位はほとんど取得していました。また、母の会社はバブル景気の後押しもあり、好調であった様子だった。
そういうこともあり、自分のアルバイト代も足して2年と3年の夏休みには、オーストラリアとカナダにホームステイをさせてもらった。
この2つの国を訪れたことは、その後の人生において大きな影響を受けたと思う。
驚かされたこと、考えさせられたことは、自分も含め日本の大学生は幼いということだった。
小学生の課題が、たとえば与党と野党の政策の違いについてだったりする。
当時の自分にとって衝撃だった。大学生ともなればそれを題材にディベートになることだろう。
特にカナダでは、ホストファミリーの質問が大変難しく、日本の政治や郵政のシステム、天皇の戦争責任問題、捕鯨問題にまでおよんだ。
拙い、めちゃくちゃな英語での受け答えでしたが、ホストファミリーは根気よく、時にめちゃくちゃ英語を直しながら聞いてくれました。
特に捕鯨問題では、「かわいくて、賢い鯨を何故たべるのか。」との問いに対し、私は「牛だってかわいいし、豚だって賢い、でもあなたもたべるでしょ。」と答えた。
納得できず、だんだん感情的になるホストシスター(といっても僕より10歳以上年上)に困りながら、必死に考えた一言は、「それじゃ、食べてよい動物といけない動物の境とは何か、どこにそのラインはあるのか、教えてほしい。」だった。
さすがに彼女は沈黙した。もちろん、黙らせようと思っての言葉ではなかった。
ホストファーザーは口を挟まずじっと聞いていたが、意見は完全に違うであろう島国からの珍客の回答を気に入ってくれたらしい。
全く相容れない意見であってもはっきり言ってよいし、そういう存在を認めることができる。彼の懐の広さを感じたものだ。
夏休みの僅かな期間ではあったが、充実した期間であった。
帰国後、漠然だがよい意味でその国の文化背景にキリスト教という宗教があることを感じながら、湾岸戦争が始まると宗教ゆえの対立に対し考えるようになった。
統一教会との出会いは、一通り自分なりにそれらを考えた後のことだった。
友人の訪問と間違ってアパートのドアを開けたら見知らぬ人物が立っていた。
彼はシュバイツァーを尊敬している人を勧誘しようとその日考えていたらしい。
私は歴史に出てくる人物は好きで伝記や人物伝は好きだった。
そして、その日VTRで見ていたのが、’シュバイツァー’に関するものだった。
尊敬する人物の問いに’豊臣秀吉’だって良かった(実際好きな人物の一人。)
だが、その時は直前まで見ていた’シュバイツァー’の名前を挙げた。
彼(霊の親)は運命を感じたらしい。
熱心な勧誘に話だけ聞いてみてもいいかと思い聞いてみると内容は至極もっともだった。
’原理’の内容もキリスト教が正しいとするなら、その通りだと思った。
それでも、内容を理解したらやめるつもりでいた。
2Daysセミナーに行き、4Daysセミナーはニセコの山の中だった。
蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山
山の中の4Days修練会だった。
その4Daysセミナーの最中、祖母危篤の知らせが入った。
いろいろとあったが、自分の意思でセミナー途中で帰った。
最寄の駅までスタッフが送ってくれた。
(自分の意思をはっきりさせただけで特に何もしてはいない。)
その教えにはどこか感じるところがあり、その後自分の意思で再度4daysセミナーに参加し、後に教会の礼拝にも参加した。
しかし、自分の意識は入信したという意識はあまりなく、いつでも学ぶのをやめそうなそんな感じだった。
それゆえ、何一つ気持ちが定まっていなかったあの時点で入信したとは言えなかったし、言わなかった。
実際、同じく2Days,4Days出た面々は一部家族の反対でという者もいたが、大半自主的に来なくなった者が多数派だった。
その後、数ヶ月、学生部で過ごした。
卒業に際し、強く献身をすすめられ、チャーチ・マザーとも面談したが、献身の件は断った。あまり、しつこいので就職して3年したら献身と言って切り抜けたが全くその気はなかった。(その後も献身はしていない。)
私は4年生の春から就職活動をして、他にも内定のもらえそうな会社はあったが、祖父のコネもありD社という会社に入社、就職する方向に決めた。
その方が、親も親族も安心し、良いだろう。そう思ったからである。
つづく
支笏湖:最大水深363mのカルデラ湖でバイカル湖、摩周湖に匹敵する
透明度を持つ、その水深により貯水量は琵琶湖に次日本第2位。
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支笏湖:支笏湖慕情
すべて記号、黒塗りよりは、読みやすいのではないかと考えて、これから出てくる家族名、牧師名はすべて仮名とし、地名はアルファベットに置き換えた。
<生い立ち>
私、秀は昭和のある寒い日、父昭雄、母利子の長男として北海道A市にて産まれました。
その後は高校卒業までB町で育ちました。
父昭雄は祖父巌の長男です。
祖父は食品加工会社を経営、また、B町議会で議員を長年務めていた人物。
父の母、私の祖母静江は後妻であり、父には実母との間の兄妹の他、祖父の先妻との間の兄とお妾さんとの間の年の離れた弟がいます。
(父の腹違いの兄弟とは私は会ったことがない。今は亡き祖母の話では祖父が交際していた女性の数は把握しきれていなかったとのことであった。)
母利子は祖父利三、祖母澄子の長女。祖父利三はの機械販売会社を経営していた。
(現在は母の弟で叔父の利一が継いでいる。)
現在、父方、母方とも祖父母は他界して故人です。
私はB町で育ったが盆正月、また夏休みごとにはA市の祖父宅を訪れ過ごした。
ゆえに父方の親族よりも母方の親族の方により親近感を持ちながら育った。
B町で育った私は、幼稚園(カソリック系)、小学校(町立)、中学校(町立)、高校はC市の高校(道立)へ進学した後、札幌の大学を卒業した。
学生時代を通して、もっとも困難な時期は中学時代であった。学校は荒れ、いじめ、校内暴力が横行していた。私も幾度もいじめ、暴力に会い、タバコの火を手に擦りつける(いわゆる根性焼き)、暴力(鼓膜を破られる)等2年弱ほど悩まされた。
一方、その頃、祖父巌は他界しており、祖父の興した会社は経営に行き詰まりなくなっていた。父と母は別居になり、父は東京方面に出て行き、母は会社を新たに作った。当時は何の連絡もなく母の帰りは夜遅くなることもしばしばであった。自分が夕食をつくり、弟とその帰りを待つという日々だった。
C市の高校への進学も自分の学力では難しいと思われたが、絶対あいつ等のような連中のいないところへ行きたいとの想いで必死に受験勉強をした。また、いじめ等の克服には中学、高校時代道場通いしたことも大きい。有段者となり、高校に進学してからは手を出してくる輩はおらず、とても平和であった。
高校卒業後、札幌市にある大学に進学して18年暮らした実家を出た。
つづく
洞爺湖:日本で3番目に大きいカルデラ湖で2009年世界ジオパークに認定された。
また、洞爺湖サミットが行われたことでも知られる。
洞爺湖温泉もよい。
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おんな洞爺湖ひとり旅
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