在米の統一教会信者秀のブログ 95年8月~96年3月7つの鍵で施錠されたマンションの高層階で監禁下での脱会説得を経験。
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いよいよ、話は完結。
祝福式はRFKスタジアムだったが、まさかその数年後、実際アメリカに住むことなろうとは、その時は思ってもいなかった。
義父との舌戦(なのかなぁ)は、今回の数年後も、、、。「私ほどお義父さんにこのように付き合って話した人はいままでいますか?」「、、、いや、いない。」と云うほど、倒れる寸前まで(時差もあり私は寝ていない状況の中)、数日に渡って夜通し繰り広げた。
短い交流ではあったが、なるべく内容のあるものになるよう心がけた。
もちろん、実際に会ったのは1997年11月28日のリハーサルの時だった。
翌29日にはRFKスタジアムで祝福式が行われた。
当日、ワシントンDCはとても寒かった。
その翌日だったかはグループ、といっても私たちのカップルともう一つのカップルでダブルデートのようにして、スミソニアン博物館に行った。
帰国後は、電話や手紙で交流を深めた。
国立航空宇宙博物館
ライトフライヤー
ところで、定職のない状態の私は依然として親から完全に自立、独立したとは言いがたい状態だったと自分では考えていた。
たとえ、親から金銭的援助を受けてなくてもである。
早く、実家から脱出したかった。
思案しながら、土地勘のある札幌に行くことにした。
幸い、教会関係の知人もいて協力してくれる。
F市教会の教会長からは「仕事のために所属の教会をかえるとは、、、。」とお小言をもらったが、最後には快く送り出してくれた。
アメリカへ
札幌に出てからは短期のアルバイトをしながら就職活動をした。不景気の上、ブランクもあり就職活動は非常に厳しいものだった。
時間を少し戻す。祝福を受けた我々は、親にはお互いを紹介する。そのためにお互いの実家を訪問することで意見は一致していた。
私は当時無職であり、この状態での相手方実家への訪問には躊躇するものも確かにあったが、祝福のためにアメリカに行ったこと、すでに相手としての私がいることは相手方のご両親も知っている。多少悩んだが、行くべきと考えた。
B町とA市、その後相対者の実家であるI市を訪れることにした 。
再度の拉致監禁を警戒したことは当然のことだった。
B町では母と会った。
打ち合わせをして、揚げ足を取られないようにとも考えたが、どう答えても揚げ足を取りに来るのは目に見えていたのでやめた。
揚げ足とりは案の定だった。
それは良いとして、母は私を完全に怒らせる一言を相対者に言い放った。
「もう、来なくてもいいわよ。」
怒らせるような暴言も、非常識な振る舞いもなかった。
その辺は十二分に考えて受け答えをしてるはずだ。
「マッチングで決まった相手は実の子供同様慈しむ、大切にする。」あの約束は何だったのか。所詮、異常な監禁下での話、約束などあって無いもの。そう強く感じ、記憶するのに十分有り余る出来事であった。
A市では祖父母と叔父の一人は会ってくれたが、母の弟の内、母と共に監禁に対主導的立場にあったと思われる叔父は、「思想が違うから」という理由で会うことはなかった。
もう一人の叔父(監禁には参加)は出会いがどうであれといって会ってはくれたが、「お姉ちゃんが許していないから全面的に祝福はできない。」と言った。
マンションの中で「次回の祝福への参加は認めるし、マッチングで決まった相手は実の子供同様慈しむ、大切にする」と言ったのは、そのお姉ちゃんなんですが、、、。
私自身は、もうどうでも良くなっていたし、自分の意見のない叔父には脱力した。
今度は相対者の実家のあるI市である。
そりゃ非常に緊張した。なにせ無職の身である。
しかも、世間的には聞こえの悪い統一教会員。相対者の実家に到着したのは午後6時を回ったあたりだったか。
義母は、わざわざにぎり寿司の出前を取って待っていてくれた。
自己紹介から始まり話は穏やかに始まった。義父は1時間あまりしてから帰ってきた。
いかにも頑固親父そうみえた。
教会について、文師について質問が飛ぶ。
監禁マンションの中で罵詈雑言批判されたのとはちょっと切り口は違う。
義父:「文鮮明がいい服きて贅沢しているのはオカシイんじゃないか。」
秀:「僕もここに来るのにスーツに革靴を履いてきています。けして、ジャージでは来ません。」「文先生がいろいろな方々にお会いする場合TPOに合わせて着るものを変えるのは当然です。」
義父:「文鮮明は飛行機やヘリコプターを持っているな。どうしてだ。」
秀:「それは、それらがあればより自由に望むこところで活動できるからです。」
義父:「(文師の)活動とは(つまるところ)人を助けるということだな。しかし、どんなに急いでも今死んでいってるものは(すぐには)救えないということだな。」
ここで、相対者が「違う!」とかなり感情的になる。それを制して
秀:「いや、お義父さんの言っていることは間違ってはいない。その人たちを今すぐに救うことはできない。」
途中、焼酎を飲みながら、時間が午前となっても、ぜんぜん眠気を出さない義父、それに比べ、もうクラクラ今にも眠りこけそうな私。眠りこけることはなんとか耐え、時に鋭い質問もありましたが、明け方まで話をしました。
義父母には、「家庭を持つ時、つまり一緒に生活を始めるのはキチンと就職してからです。」と宣言して帰ってきた。
そのようないきさつがあったので、正社員として就職することは悲願でした。そうした中、友人からの紹介でK社のアルバイトをすることになりました。10日程でアルバイトはおわりましたが、私の経歴を聞いた支店長から神奈川の支店で営業を募集しているがどうかというオファーをもらい、就職することになりました。
その後、神奈川から人員の移動で再び札幌に戻りました。
祝福を受けてから、ずっと再度の拉致監禁は警戒をしていました。
防ぐ絶対の方法がないので、常に悩みのたねでもありました。
考え抜いた末、早期の入籍より方法はないと考え、相対者とも話しあいをしました。
婚姻届には成人2名の署名と捺印が必要です。
たしかに、署名と捺印は、周りの教会員にお願いすれば造作もないことではあります。
でも、それではダメだと思いました。
比較的、話を聞いてくれそうな義母にダメもとでお願いしてみることにして、相対者から聞いてもらうことにしました。
義母は快く署名してくれ、私たちは当時私の住んでいたJ市に婚姻届を出しました。
監禁解放後の母の態度、姿勢は再度の監禁がないことを裏付けるものではなかったので私自身は拉致監禁の影を常に恐れながらの生活でした。それゆえ、一応の安堵感は得られた。
ほっとしたのもつかの間。折角就職できたのですが、再就職したK社にはリストラによる経費削減がありました。結果、人件費も当然対象で、私はリストラされてしまいました。
やはり、落ち込みましたが、この機会と考え家庭出発のため必要とされる済州島14日修練会に参加することにしました。
参加する前、夏のことですが、K社の役員から電話がありました。
開口一番、
役員「秀君、アメリカ行かない?」。
秀 「???」「どういうことですか?」
アメリカの関連会社で人を探しているということだった。
「アメリカかぁ。」
行ってみたいという気持ちとやっていけるのか不安な気持ちも当然あった。
「面白そう。」
「絶対、ヤダ。」
親しい友人らの意見も様々だった。
行きたい気持ちもあるし、当然不安もあると話した友人の1人がこう言った。
「ニューヨークかぁ、いいねぇ。だめだったら?その時は帰ってきたらいいよ。」
たしかに(当時)日本の経済状況は良いとは言えなかった。いや、最悪か。仮に数ヶ月、1年後、日本に帰ってきても経済状況は今とそう変わらない。チャレンジそう思って行くことに決めた。
一度渡米して、様子を見てきたあと、VISAの発行を待って翌年渡米した。
生活を立ち上げ、相対者を呼び寄せ家庭出発した。年はさらに明けていた。
渡米から10数年。
今は、永住権を得、教会関連ではない仕事をし、くらしている。
3人の子供たちと妻とともに。
完
久種湖:礼文島にあり、日本の現施政権下でもっとも最北端にある湖
ご当地ソングはないが、悲恋の伝説がある。
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監禁により生活基盤を失った。
理不尽な「拉致監禁」に対し悔しい気持ちはあった。
裁判をおこすことも考えたが、物証がない。
結局、この不快な環境から脱するため、私は失われた生活基盤、つまり、経済的自立、独立を優先させる選択をした。
実家での生活
監禁生活から解放され、とりあえず実家に帰えらされたが、この時自分は借金を負わされていた。統一教会への献金によるものではない。
勤めていた会社在籍中に購入した車のローン代、これは社内融資で購入したものだ。
これが130万円くらいあった。
もちろん、売却も考えたが主に2つの理由で断念した。
1つは売却しても残金の清算はできず、大部分がやはり借金で残ってしまうこと。
もう一つは、実家から所属していたF市の教会へは車で2時間はかかるし、最寄の教会も車なしで行くことは困難だったからである。
もう一つの借金は監禁期間中(滞納となっていた)アパートの家賃や駐車場の代金である。
これは45万程であった。
これらは、叔父が立替ていた。
監禁から解放された後は、貸した金をかえせ。だ。
自分たちのエゴのために監禁をして、職も奪っておきながらとむちゃくちゃ腹が立った。
もしも、私が脱会をしていたらその対応は明らかに違っていただろう。
ゆえに、理不尽でもこれをたたき返さないと真の自由はないと思った。
当面、退職金と失業保険でしのぐことにしたが、バブル崩壊後の経済下にありとても不安であった。
すべてを支払いに使ってしまっては身動きができなくなってしまうので、手元にある程度残しつつ、不安解消のためもあり、お金はかかったが資格を取得したりした。
監禁解放後、外出にも何処に行くのかいちいち干渉してきてうるさかったので、資格取得での外出は気晴らしにもなった。
しかし、依然、借金完済の目処は立たないでいた。
秋となり、失業保険もなくなるころ、近くの工場で夜勤、日勤交代の仕事をすることにした。地元の工場、農閑期の人たちが働きにくる。
当然、中には同級生の親なんかもいる。
「どうしていたのか、なぜここにいるのか。」など聞かれ、あまり、居心地の良いものではないが、背に腹はかえられない。とにかく、春まで働き、借金は完済した。
これで文句は言わせない。少しだけ達成感を感じた。
規定以上の勤務期間になったので新たに失業保険をもらえたのも幸いだった。
さてこの頃、360万双、後の4000万双の話がでてきた。
マンションの中で、次の機会には、祝福を受けることは宣言していたので、当然のごとく参加の申し込みをした。
気持ちは監禁7ヶ月の間に十分説明した。
しかし、牧師に何を吹き込まれたか知らないが、母はまだ納得できないとか言い出す始末だった。
マンションの中で、「次回の祝福への参加は認めるし、マッチングで決まった相手は実の子供同様慈しむ、大切にする」と泣きながら約束したのはあなたですよ。
所詮、あんな仕組まれた異常な環境での約束など当てにならんということだ。
さて、問題は祝福献金である。
なんとか、完納したいと思っていた。
親も監禁マンション内から、祝福献金の金額は知っていた。
そのことには文句を言ってこなかったというより、嫌ならそもそも受けなければ良い話。
少なくとも親に出させる、出してもらうことは微塵も考えていなかった。
あれこれ、思案して道外のG市の機械工場に期間工として働きに行くことにした。
理由は、
寮があり、3食付田舎で仕事を探すよりはかなり高給であり、お金を貯める目処が立つこと。実家から離れられることは、精神的にとても楽に思えたこと。
最後は、教会。
期限内で、効率よく、誰にも文句のない方法で確実な方法となると限られるし、ここにはそのための適当な仕事先はないこと等を説明して説得した。
G市に行く前に相対者の写真をいただいた。
韓国の女性だった。
祝福式までにはまだ暫く時間がある。
ある程度、交流を重ねることができるだろう。
期待を込めてそう思った。
工場での勤務は1週間おきに日勤、夜勤を繰り返しながらの組み立てラインで働くというものだった。
生活に必要なお金プラスアルファを計算して給与が出たら給与受け取り口座とは別に作った口座に残り全額を入金していった。
仕事は、正直きつかった。
3食しっかりどんぶりで食べ、おかずのボリュームも十分だった。
それでなお、監禁中に増えた体重は急激に減り、監禁前よりも体重は減った。
思わぬ副産物であった。
働いて、体を動かしながら食事も十分に取ってなので、贅肉が削ぎ落ちたのだろう。
きつい作業の中でも目的が明確にあったので頑張れた。
日曜日には、G市には教会はなかったので、電車を乗り継いでH市の教会に通った。
こうして、半年弱G市で働いた。
G市にきて、しばらくして異変があった。
韓国の相対者に送った手紙がすべて戻ってくるようになった
それも、最初に送ったものも。
韓国にいる札幌の学生部時代世話になったマザーに相談してみた。
すぐに、相手に電話をしてくれ、電話をくれた。
すごく、言い難そうだったが言わないと始まらないからと
相手は日本人とのマッチングを望んでいなかったこと。
写真も見ていないし、手紙も開けずに返したので、私の容姿や書いた手紙の内容が原因ではないことを話してくれた。
あまり、ショックということはなかった。
正直な女性だと思った。願わくばもう少し早く言ってほしかった。
ショックを受けても、お互い前に進まないといけないのだから。
H市の教会長(当時は韓国の方だった)にも事と次第を報告した。
教会長はすぐその場から韓国に電話をした。
具体的な内容はわからないが、相手をそうとう強く叱っていた。
横で聞いていた私は何度か「もういいですよ」と言ったが、教会長は納得できない様子で暫く激しく話していた。
私自身は、彼女に悪い感情はなかったし、断ることができたことにはかえって評価する。
ずるずると自分に感情を出さず、先延ばしにされたあげく断れるよりはありがたいと思った。
教会長は電話をきった後、しきりに「申し訳ない。申し訳ない。」と私に何度も深く頭を下げた。
私は、「彼女のことを別に恨んでもいないし、教会長が悪いわけでもない。だいじょうぶです。それよりも今後のことを考えたい」と言い、その場はおさまりました。
F市の教会から出したマッチングだったので、そちらにも報告、次の機会があったら連絡してもらうことにした。
半年弱のG市での仕事で140万と祝福会場であるアメリカ・ワシントンDCまでの渡航費等を貯めることができた。
結局、相手が決まったのは祝福の一ヶ月前だった。
早々に書類をだして、ある程度交流をしてから式に臨むという計画はどこかに行ってしまった。
そう上手くはいかないらしい。
過去2回のマッチングから自分は韓国の人が相対じゃないかと勝手に思っていたが、日本人で少々拍子抜けだった。が、言葉の問題がないのはありがたかった。
「断ってもいいよ」という話も電話でした。
彼女(現在の妻)は「えッ?」と思ったにちがいない。
つづく 次回、完結です。
オンネトー:日本秘境100選の一つで北海道3大秘湖の一つ。
見る時間や季節によって湖面の色が変化し、五色沼とも呼ばれる。
ご当地ソング♪
「ねむるオンネトー」
一時でも早く、監禁から解放されたいという想いと2度、3度の監禁は避けたい想いが交差しつつ、精神的疲労も激しい、限界も感じながらも完全決着をつけるべく、監禁生活は終盤へ。
午前0時(米東部時間)を回った。今日は7月4日アメリカの独立記念日。
このような状態をよくも話し合いだというと、怒り心頭であったが、いくら抗議しても監禁が解かれることはなかった。
こうした状況に対して、できること、試せることをしてみる以外、手はなかった。
トイレ、押入れへの立てこもり、真冬であったが窓ガラスも割った。しかし、修理の業者ではなく弟がビニールとテープで応急的に修理して終わりだった。
自分でコントロールできることを考えた末、昼夜を逆転させ周りがこれに合わせてきたら、またその逆をする。これを徹底的に繰り返した。
話し合いと称して、多重の施錠を施され閉じ込められ、常識すら通じない世界。
抵抗しようにも方法は限られていた。一体何週間続いただろうか。
牧師にも「閉じ込めた上、中学生レベルの常識すら通じない。これのどこが話し合いなのか!」と訴え続けた。
あまりにと思ったのかはわからないが、常識が通じないという状況を変えることには同意を得た。
”監禁の仕方、拉致の仕方などを親や親族が独自に開発して実行したなどということはない。
牧師らの教授があってはじめて可能なことだ。
自分と全く異なる時、地域で拉致監禁された者たちの証言による彼らの手法が全く同一であることはそのことを証明している。”
牧師の言いなり、許可なしに判断できなくなっている親らとの関わりは大変困難なものだった。それで、自分は、牧師を上手く使うことにした。
同じことを自分が言っても聞き入れられないが、牧師が言えば効果てき面だからである。
同様に元信者にもこの方法は効果絶大だった。
例えばこのようなことだ。
文師と一緒にボートで魚釣りをしたという教会幹部が、「(宗教的に)指導され感謝である。」という記事が教会系の書籍にあると「ボートで魚釣りすることのどこが(宗教的な)指導なのか」と親達は批判の雨アラレ、「単なるレジャー(魚釣り)をして、(宗教的)指導とは統一教会は異常な宗教」だと、、、。
イエスが山に登り、弟子たちを指導した聖書の例をだして説明しても一切聞き入れない。
ところが、牧師が、「師と弟子が、いつ、どこで何をしていてもそれは(宗教的)指導になる。」と言うと恭しく聞き入れる。
キリストの山上の垂訓
牧師曰く、師と山を登っていても、食事をしていても、
釣りをしていても、遊んでいても、共に何をしていても、
特に説教がなくても、共にいるだけで指導を受けている
ことになる。
このようなことが続く。元信者についても、意見の対立があっておかしなことを言ってきたら「川本牧師は、大西牧師はそんなことは言っていなかったぞ。」と返せば良かった。
この頃には教会への批判は出つくしており、持ち込まれていた批判本(13冊)も読みつくしていた。牧師はどちらかが、2日に一度の割合でもう来るなと言っても訪問してきていたが、会話の内容が教会批判から変化を見せていた。
それまでは、裁判対策なのであろう批判資料を持ってきては「読んでみて下さい。」批判本等をもとに「話し合って下さい。」というスタンス、つまり親の後ろに隠れて指示は出すが直接は手を下さないという手法で正直イヤらしい奴らというが印象だった。
どう変わったかというと、教会への直接的というかスキャンダル的批判から、秀自身の考えを探るような感じへ変化したように思った。
キリストの十字架について
献金について
責任についてetc
幾度となく話すにつれ、牧師は首をかしげ困惑している様子だった。
そして、ある日とうとう大西牧師がこう言った。
「おかしい、おかしい、、、、。 秀さんと話していると、まるでクリスチャンと話しているようだ。」
時系列的には前後してしまうかもしれないが、マンション内にいる間に親知らずが虫歯になり、歯には陥没したような穴がポッカリあいた。
そのような状態なので、耐えがたい激痛となり、眠ることもままならないそのような状況だった。しかし、何度訴えても歯医者に行かせてはもらえなかった。
尋常ではない痛みに、「閉じ込め、治療をさせないというのは、もはや傷害罪だ。治療させないなら絶対訴えてやるからな。」と脅した。こちらも日に日に増す痛みに切羽詰っていた。
親らは牧師と相談して、監禁マンション近くの歯医者を予約した。年は明けて2月になっていた。その後、治療で外に出ることが叶った。
実に夢にまでみた外の世界だった。歯は結局抜歯することになった。
通院は、逃走をはかると思われていたので、当然監視つきである。
歯医者とて、あくまで反対牧師が準備した医者である「監禁されています。」などと言って聞いてもらえるようには感じることはできなかった。
帰れば変わらず7つの鍵で施錠された。
しかし、この監禁はもうそう長くはない。根拠はないがそう感じられるようになって、希望と期待感があった。
外に出られた際、隠し持っていた10円で公衆電話から教会に電話した。
電話にでてきた青年部長は、電話を喜んでくれた。時間もないので札幌のマンションで監禁されていること、無事であることを伝えた。
「逃げることはできないのか」という問いかけはあったが、この時には監禁が解かれる日は間近という確信があったので、「だいじょうぶ必ず戻ります。」と言って電話を切った。
教会に電話したことは咎められたが、何処に電話しようがそんなのは自由である。
「一体何時まで、監禁を続けるのか」と問い詰めた。
しばらくして、大西牧師がきた。
「秀さんは今後統一教会員として生きていくのですか?」と問われ
「はい、そうですよ。」躊躇なく答えた。
別の日、川本牧師がきた。逆にこちらから質問した。
「もし、先生が僕と同じ立場で、このような状況(多重の施錠の上、監禁され、棄教を迫られた)にされたら、そのようにした者を許すことができますか?」
川本牧師はしばし考え込み、こう答えた。「できません、、、。」
もはや、この異常な空間は無意味でしかなかった。何時までここにいるつもりなのか、何時出るのか問い詰めた。
しかし案の定、親は自分たちでは決められないのだ。
もう、この時には苦笑するしかない。
「どうせ、牧師のなんちゃら先生に聞かないとあなたでは決められないのでしょう。」「さっさと、牧師先生に電話して、お伺いをたててきたら」
「、、、、、、、」
やはり、決断できませんでした。
それから、外に電話をしに行って帰ってきた親は、「〇日にでる。」とだけ言いました。
しかし、場所を移動してさらに監禁が続いたというケースを知っていたのでけして安心できるものではなかった。
最後の10日ほどは監禁マンションからでるための条件のせめぎあいがあった。
解放後は実家に戻れという牧師と帰りたくないという私の主張が真っ向からぶつかった。
本当は、(実家に)帰るのは死ぬほど嫌だった。
しかし、長くはないという希望があっても、これ以上抵抗して、監禁に耐えるだけの気力は乏しく、疲弊の局地でもあった。
とにかく、一日でも一刻でも早く監禁部屋から出たかった。
それゆえ、自分の意思で望んで帰るふりをした。つまり、自分にも親にも嘘をついた。
そうしないと、精神がもうもたないかもしれない。そのように感じていたからである。
3月〇日、監禁マンションからは解放された。嫌でも約束は約束である。 実家に帰った。
まだ もうすこし続きます。
監禁から解放されたら、万歳、めでたし、めでたしというわけじゃない。
次回は監禁後の話。
屈斜路湖:日本最大、世界でも2番目に大きなカルデラ湖
湖の岸辺を掘ると温泉がでる砂湯があり、湖に突き出た
和琴半島はミンミンゼミの北限生息地。
こんな歌詞 なんと5番まであるぞ
(一) 昔むかしの 大むかし
そのまた昔の大むかし
夜空に星が かがやいて
二つ流れて 落ちたとさ
(二) スコットランドの湖と
日本の北の みずうみに
サファイヤ色の尾ひいて
二つ流れて 落ちたとさ
(三) 誰から受けたこの身やら
いつ迄生きるさだめやら
千年ひそむ 屈斜路湖
いつか呼名もクッシーさ
(四) 花よ青葉よ 月かげよ
白鳥くれば また冬よ
暗い湖底で 春をまつ
ネッシーあなたはどうしてる
(五) 西へ流れる お星さま
私の思いを つたえてよ
ネス湖のたよりは西風が
吹けばくるだろ
とどくだろう
「ネッシーとクッシー」 唄 田中星児・ビクターレコード
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監禁部屋の中では、統一教会と関係のない常識が通じなくなる現象がおこる。
しかも、監禁された時期、場所、関与した牧師が全く異なるケースでも。
何故、おきるのか大いに疑問、謎。
元信者
元信者も監禁部屋に来るようになります。
しかも自分より信仰暦の長かった人達で、中には知っている者もいます。ただ長いだけではなく、いままでに12名伝道したという人もいます。
そのような頑張ってきた人から教会や文先生の罵詈雑言を聞くのは耐えがたいことでした。
牧師のことは大西先生、川本先生なのに文先生のことは呼び捨てです。
これは親も同じでした。
「文はメシアじゃないよッ!!!」まさに鬼の形相でした。
「文はメシアじゃないよッ!!!」
「この大西、川本に指導されるとこうなるのか。」
「他人の大切にしているもの(信仰)について大切に扱うことができない人間になるのか。」と強く思い、深く心に刻まれました。
そして、自分はこのような人達と同じには絶対になりたくないと思いました。
両牧師はどちらかがだいたい1日おきに来ました。
それに加えて元信者が来ました。
一回に2~4時間くらい滞在します。
よくノイローゼにならなかったものだと我ながら感心します。
元信者の一人は、自分が非常識な人間でそれは統一教会に入ったことでそうなったんだと思い込んでいました。一般常識など、親元で過ごした間に身につけるべきものと私は考えます。
復興会としてバスで、日帰りで遊びに行って来たのを彼女は「旅行に行ってきた」と話した。
母は「旅行って韓国にでも行ったのですか?」と聞き
それに対し、「バスで、日帰りで」という話になった。
「へえ~!日帰りで?それが旅行なんですか!」という母。
「自分は常識がないので、、、。」元信者となった。
どうでも良いが「日帰りバスツアー」というのが当時もあったが、彼らはツアーを日本語で一体何と訳すというのか。
当時も日帰りバスツアーはありましたけど、、、
統一教会がいかに非常識かを演出したかったのだろうが、、、、。
もう一人は「夢はアメリカのHighway(高速道路)をビールを飲みながらかっ飛ばすこと。」だそうだ。
さすがにすぐに「アメリカでも飲酒運転はね違法!」とつっこみをいれた。
「統一教会は違法(違法まがい)行為をしていて、けしからん。」と数週間に渡りさんざん批判した矢先、平気で言うのだから心底呆れてしまった。
当然、アメリカでも飲酒運転は”犯罪”だ。
HIGHWAYでの事故で大破した車
正直、まともに話すことに嫌気がした。
元信者だけではありません。
監禁部屋であるマンションの中では親との会話でも常識レベルのことが通用しなくなりました。
例えば、文師は文総裁といわれることがあります。
”総裁とは、組織の長のこと”で、日銀総裁等の使い方をします。
しかし、マンションの中では総裁=(自民党の)総裁=日本国の内閣総理大臣で、いくら「総裁というのは自民党総裁だけではないのだ」と説明しても、総裁とは(日本の)総理大臣のことで文師が日本を乗っ取ろうとしているから総裁と称しているのだということになる。
本当にアホらしい~。
文師の次男、興進氏の自動車事故に関しては、17才だった興進は”無免許”だったという。
その根拠は、なんと(日本の)運転免許取得が18才からだからだという。
「事故がおきたのはどこの国?そこの法律はどうなっているのか?」
全然、ピンとこない。
アメリカ・ニューヨーク州でおきた事故でニューヨーク州法では16才になると運転免許が取れることを説明しても???理解しようとしない。
こんなのを持ち出して、人のことをマインド・コントロールされているなどという。 ほんと、一体どっちがだ。
(この統一教会に全く関係のない一般常識が通じなくなる現象は、我が家特有のことではないらしい。複数の拉致監禁体験者と話をしたが、同様のことがおきている。)
ある時は、ある反対本の中に描写されていた信者が土下座をして信仰を続けることを嘆願する場面を母は嫌味たらしく読み上げ、嘲笑した。
結果的にその脱会してしまった信者が、その時、どんなにか悔しかったことかと思いつつ、嘲け笑う母を見て、絶対土下座などするかと強く誓った。
一週間後、嘲笑した信者のように土下座していたのは、私ではなく母だった。
「教会を辞めてくれ」と言いながら。
時に罵詈雑言、時に泣き落とし。
棄教させるためならなんでもありの状態だった。
監禁され一歩も出られず、罵詈雑言を聞かされる日々というのは大変なストレスである。
私は、ストレスで10KG以上体重が増えた。監禁する側はどうか、買い物等自分の意思で外にでることが出来た母であるが、体重は見るからに落ち、抜け毛が激しくなっていった。
双方ともひどいストレスであったと思うが、決まって親がこれだけ心配してるのだと責められ、自らの意志で外に出ることのできないこちらのダメージについては無視され続けた。
つづく
摩周湖:この湖もカルデラ湖。よく晴れた日の湖面は
「摩周ブルー」と呼ばれる。
バイカル湖についで世界第二位の透明度を持つ。
ご当地ソング♪
霧の摩周湖